5世紀後半、古代日本の王権は大きな転換点を迎えました。その中心にいたのが、第21代・雄略(ゆうりゃく)天皇、またの名をワカタケル大王です。
『宋書』倭国伝では「武」として知られ、強いリーダーシップを発揮した英雄。しかし、『日本書紀』では即位のために容赦なく肉親や政敵を葬り去った「大悪天皇(はなはだあしきすめらみこと)」として描かれています。
彼は一体、誰を殺し、どのような権力を築き上げたのか? 今回は、雄略天皇が断行した「血の粛清劇」と、その犠牲となった皇子・豪族たちにスポットを当てて解説します。
兄たちへの疑惑と粛清 即位への血路
雄略天皇(即位前は大泊瀬皇子:オオハツセノミコ)の粛清は、父である允恭天皇の死後、兄の安康天皇が暗殺された事件から幕を開けます。
眉輪王(マヨワノオオキミ)の殺害
安康天皇を暗殺したのは、従兄弟にあたる眉輪王でした。オオハツセ(後の雄略)はこの混乱に乗じ、実行犯である眉輪王を追い詰め、焼き殺しました。しかし、彼の刃はそれだけでは止まりませんでした。
実の兄たちの殺害
オオハツセは、天皇暗殺の報を聞いても動揺を見せなかった実の兄たちに疑いの目を向けます。「国家の危機に際して、なぜこれほど平然としていられるのか(=野心がない、あるいは共謀している)」という理屈で、以下の二人を殺害しました。
- 八釣白彦皇子(ヤツリノシロヒコノミコ)
- 坂合黒彦皇子(サカイノクロヒコノミコ)
これにより、有力な皇位継承権を持つ兄弟はいなくなりました。
最大のライバル「市辺忍歯別王」の謀殺

兄弟を排除したオオハツセにとって、皇位継承の最大の障壁は、先々代の履中天皇の息子である市辺忍歯別王(イチノベノオシハワケノミコ)でした。血統的に正当性が高く、周囲の人望も厚い人物でした。
狩り場での凶行
オオハツセは「一緒に狩りをしよう」と市辺忍歯別王を近江の蚊屋野(かやの)に誘い出します。そして、狩りの最中、獲物を狙うふりをして至近距離から矢を放ち、市辺忍歯別王を射殺しました。
さらに、その遺体をバラバラにして埋めるという残忍な処置を行ったと伝えられています。この恐怖政治により、オオハツセは第21代・雄略天皇として即位を果たします。
名門豪族「葛城氏」の滅亡

雄略天皇の粛清の嵐は、皇族だけでなく、当時絶大な権力を誇っていた地方豪族にも及びました。その最大のターゲットとなったのが、葛城氏です。
葛城円(カツラギノツブラ)と眉輪王の最期
前述した眉輪王が逃げ込んだ先が、当時の大臣的な立場にあった豪族・葛城円の屋敷でした。 雄略天皇は軍勢を率いて葛城氏の邸宅を包囲し、火を放ちます。追い詰められた葛城円は、娘と眉輪王を自らの手で殺めた後、燃え盛る屋敷の中で自害しました。
これにより、仁徳天皇の時代から数代にわたって天皇家に娘を嫁がせ、外戚として権勢を振るった葛城氏の本宗家は滅亡しました。これは単なる復讐ではなく、「王権を脅かす強大な豪族を排除し、権力を大王に集中させる」という政治的な意図があったと考えられています。
吉備氏への圧力と反乱鎮圧
葛城氏に次いで雄略天皇が標的としたのが、瀬戸内海の制海権を握る強大な吉備氏でした。
- 吉備下道臣前津屋(キビノシモツミチノオミサキツヤ): 「天皇と対等だ」と驕り、模擬戦争をしていたという理由で、雄略天皇によって一族もろとも誅殺されました。
- 吉備上道臣田狭(キビノカミツミチノオミタサ): 雄略天皇が田狭の妻(稚媛)の美しさを聞きつけ、田狭を朝鮮半島の任那へ左遷し、その隙に妻を奪いました。これに激怒した田狭は反乱を企てましたが、鎮圧されました。
これらの粛清を通じて、雄略天皇は西日本の最強豪族であった吉備氏の力を削ぎ、その勢力を大和政権の配下に完全に組み込むことに成功したのです。
恐怖の裏にある「国家形成」の意志
雄略天皇が「大悪天皇」と呼ばれた背景には、これほどまでに凄惨な粛清の数々がありました。
- 皇位継承のライバル(兄弟・従兄弟)の排除
- 最強豪族(葛城氏・吉備氏)の解体
しかし、歴史的な視点で見れば、これは「豪族連合政権」から「大王を中心とする中央集権国家」への脱皮という、痛みを伴う改革であったとも言えます。彼の冷徹な意志と強引な手法がなければ、後の強力な日本の国制は生まれなかったかもしれません。
埼玉と熊本をつなぐ剣 列島規模の支配網
雄略天皇の力がどれほど強大だったのか。それを如実に物語るのが、考古学的な大発見です。
- 埼玉県・稲荷山(いなりやま)古墳から出土した鉄剣
- 熊本県・江田船山(えたふなやま)古墳から出土した大刀
遠く離れた関東と九州の古墳から発見されたこれらの剣には、どちらも「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」の名前が刻まれていました。
これは、5世紀後半の時点で、大和(奈良県)にいる大王の権威が、関東から九州にまで及んでいたことを示す決定的な証拠です。
特に稲荷山古墳の鉄剣には、大王の親衛隊的な武人集団である「杖刀人(じょうとうじん)」の長として奉仕していた地方豪族の姿が記されています。地方の有力者が大王の直接的な支配システムに組み込まれ始めていたことが、文字によってはっきりと証明されたのです。
部族長から専制君主へ 古代国家のターニングポイント
雄略天皇の時代は、古代史における大きな「画期」として認識されています。
それまでの倭国の王権は、各地の有力な豪族たちによる「連合政権」的な性格が強いものでした。しかし、雄略天皇は強力な軍事力を背景に、その体制を大きく変えようとしました。
- 組織の整備: 大王に仕える人々を、その職務内容(職掌)によって区別する「人制(じんせい)」と呼ばれる組織体制が整えられ始めました。
- 豪族の統制: 葛城氏や吉備氏といった、大王家を脅かすほどの強力な地方勢力を制圧し、服属させました。この軍事力を支えたのが、後に大連(おおむらじ)となる大伴氏や物部氏といった軍事的な氏族たちでした。
つまり、雄略朝は「軍事的専制王権」が成立した画期であり、それまでの「部族長たちの集まり」から、大王を中心とする「中央集権的な軍事国家」へと脱皮していく、まさにその過渡期にあったのです。
神話が語る王権の力 葛城一言主神との遭遇
雄略天皇の強大な力は、神話や伝承の世界にも反映されています。
有名なエピソードに、雄略天皇が葛城山で狩りをしていると、自分とそっくりな姿をした神、一言主神(ひとことぬしのかみ)に出会うという話があります。
驚くべきことに、天皇は神に対して臆することなく、対等に言葉を交わし、互いに獲物を譲り合った末に、最後は神が天皇を見送ったと伝えられています。
また、葛城の神が雄略天皇の怒りを買い都を追放されるといった話も伝わります。
これらの説話は、雄略天皇による強力な王権の伸長を象徴的に語っていると言えるでしょう。
記事情報・アクセス
参考文献
より深く知りたい方におすすめです。
アクセス情報(雄略天皇陵)

雄略天皇が眠るとされる「丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)」へのアクセスです。
名称: 雄略天皇陵(高鷲丸山古墳)
住所: 大阪府羽曳野市島泉8丁目
【電車でのアクセス】
- 近鉄南大阪線「高鷲駅」下車、北へ徒歩約15分。
【車でのアクセス】
- 西名阪自動車道「藤井寺IC」から約10分。
- ※専用駐車場はありませんので、近隣のコインパーキングをご利用ください。





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