【大善寺玉垂宮】高良玉垂命の正体は武内宿禰?大善寺「藤大臣」の謎を解く

福岡県
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筑後一の宮・高良大社。 その主祭神である「高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)」の正体をめぐっては、これまで「物部氏の祖神説」や「安曇磯良」など、多くのミステリーが語られてきました。

しかし、今回ご紹介する研究(河野雄一著『高良玉垂命とは誰か』)は、これらの論争に終止符を打つかもしれません。

鍵を握るのは、高良大社の「兄弟」とも言われる古社、大善寺玉垂宮に残された伝承でした。 今回は、史料と伝承を徹底的に読み解き、高良玉垂命の「真の正体」に迫ります。


謎を解くカギは「大善寺」にあり

高良玉垂命の正体を探る上で、最も重要な手がかりとなるのが、久留米市大善寺町にある大善寺玉垂宮(だいぜんじたまたれぐう)です。 この神社は高良大社と「兄弟」の関係にあり、一説には高良大社よりも古い起源を持つとも言われています 。

大善寺の伝承では、祭神である玉垂命は別名「藤大臣(とうのおとど)」と呼ばれています 。 この「藤大臣」が誰なのかを特定できれば、自動的に高良玉垂命の正体も判明するのです。

藤大臣の「3つの条件」

論文によれば、大善寺の伝承に残る藤大臣の特徴は以下の3点に集約されます 。

  1. 神功皇后の三韓出兵の功労者であること
  2. 賊徒退治の勅命を受け、筑紫を平定・統治したこと
  3. 筑紫の地で死没したこと

この3つの条件すべてに当てはまる人物こそが、真の「玉垂命」です。


異説の検証 なぜ「物部」や「安曇」ではないのか?

これまで有力視されてきた「異説」の候補者たちは、この条件に当てはまるのでしょうか?

× 物部胆咋(もののべのいくい)説

物部氏の有力者ですが、彼は景行天皇の時代から活動しており、藤大臣が活躍したとされる仁徳天皇の時代(360年代〜390年代)には、世代的に高齢すぎて生存が考えにくいとされます 。

× 中臣烏賊津(なかとみのいかつ)説

神功皇后の側近ですが、彼は仁徳天皇の次代である允恭天皇の代まで生きていた記録があり、「仁徳期に筑紫で没した」という条件と食い違います

× 安曇磯良(あずみのいそら)説

近年人気の説です。しかし、そもそも『日本書紀』や『風土記』といった古い正史には「安曇磯良」という人物は登場しません。彼は後世(鎌倉時代頃)になって八幡信仰の中でクローズアップされた存在であり、高良大社の創建当時の祭神とは考えにくいのです 。


真実は「正統」にあり 武内宿禰説の復活

では、先ほどの「3つの条件」をすべて満たす人物は誰か? 史料を素直に読み解けば、一人の人物に行き着きます。

それこそが、高良大社が公式に祭神としている武内宿禰(たけのうちのすくね)です。

  • 三韓出兵の功労 神功皇后の片腕として活躍し、朝鮮半島政策にも深く関与しました 。
  • 筑紫の統治 『日本書紀』にも、応神9年に武内宿禰が筑紫に派遣され、民を監察した(政治を行った)記録があります 。また、弟の讒言により筑紫で殺されかけたエピソードは、彼が筑紫に独自の強い勢力基盤を持っていたことを裏付けます 。
  • 死没地と時期 仁徳55年あるいは78年に没した・行方不明になったという伝承があり、これは大善寺伝承の年代と驚くほど一致します 。

つまり、「高良玉垂命 = 藤大臣 = 武内宿禰」という説が、最も歴史的に矛盾がないのです 。


なぜ「正体不明」になったのか?

「正解が武内宿禰なら、なぜ1000年以上も論争が続いたのか?」 その原因は、中世に流行した「八幡信仰」の影響にあります。

八幡愚童訓による「分断」

鎌倉時代に書かれた『八幡愚童訓(はちまんぐどうくん)』という書物が決定的な役割を果たしました。 この本の中で、八幡神(応神天皇)を中心とするストーリーを作る際、「武内宿禰」と「高良神(藤大臣)」を別々のキャラクターとして描いてしまったのです 。

  • 本来: 武内宿禰 = 高良玉垂命
  • 八幡信仰の影響後: 武内宿禰 ≠ 高良玉垂命(別神として分離)

もともとは同一人物だったはずが、後世の宗教的な都合や物語化によって分離され、「じゃあ、武内宿禰じゃない方の高良神って誰?」という謎が生まれてしまった 。 これが、千年にわたる謎の真相だったのではないでしょうか。


高良玉垂命の正体

高良玉垂命の正体論争は、「人間が自ら作り出した神格を、後世の人間が忘れてしまい、再びミステリーとして崇め直す」という、歴史の皮肉さを示しています 。

しかし、だからといって高良大社の魅力が薄れるわけではありません。 古代の英雄・武内宿禰が、晩年を過ごし、国を守った筑紫の地。 「神籠石」という古代山城の上に鎮座するその姿は、やはりここが国家防衛の最前線であり、その司令官にふさわしい場所だったことを物語っています。

大善寺玉垂宮と高良大社。 この二つの社を巡ることで、私たちは1600年前の「英雄の足跡」に、より近づくことができるのかもしれません。


大善寺玉垂宮

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参考資料

本記事は、以下の論文を参考に作成しました。

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