【竹野神社】「元皇后」の伝説とは?開化天皇妃・竹野媛が故郷に遺したもの

丹波・丹後
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京都府京丹後市、日本海を望む地に鎮座する竹野神社。 平安時代の『延喜式神名帳』において「大社」に列せられたこの神社は、ただの地方の古社ではありません。境内を囲む塀には、皇室や門跡寺院にしか許されない「五本線の筋塀(すじべい)」が白く輝き、その格調の高さを無言のうちに物語っています。

なぜ、都から遠く離れた丹後の地に、これほど高格式な神社が存在するのか。その鍵は、第9代開化天皇の妃となり、後にこの地へ戻った一人の女性、竹野媛(たかのひめ)の数奇な運命と創建神話に隠されています。

今回は、古代「丹後王国」の記憶を今に伝える竹野神社の主祭神と、その創建にまつわる伝説を深掘りします。

複雑な「主祭神」の構造 アマテラスと竹野媛

竹野神社の祭神構成は、表向きの顔と、歴史的な実質の顔という二重構造を持っています。ここを理解することが、この神社の本質を知る第一歩です。

表の主祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)

現在の主祭神は、皇室の祖神である天照皇大神です。 これは社伝によれば、後述する竹野媛がこの地に帰郷した際、自ら皇祖神を勧請して祀ったことに由来するとされています。つまり、「元皇后が祀った神」が主祭神となっている形です。

真の主役 竹野媛命(たかのひめのみこと)と皇子たち

しかし、この神社のアイデンティティは、相殿や境内社に祀られる神々にこそあります。

  • 竹野媛命(たかのひめのみこと:この神社の創祀者であり、地元の大豪族・丹波大県主由碁理(たんばのおおあがたぬし ゆごり)の娘。
  • 日子坐王命(ひこいますのみこ):竹野媛が開化天皇との間にもうけた皇子。後に丹波・丹後地方を平定し、この地域の王統の祖となった重要人物。
  • 建豊波豆羅和氣命(たけとよはずらわけのみこと):同じく竹野媛の生んだ皇子。

つまり竹野神社は、形式上は「アマテラスを祀るお宮」ですが、その実態は「開化天皇の后と、その皇子たち(丹後王家の祖)」を祀る聖地としての性格を色濃く持っているのです。

政略結婚と「帰郷」のミステリー

竹野神社の創建譚は、ヤマト王権拡大期における政治ドラマそのものです。

大豪族の娘、天皇の妃となる

古墳時代前期(または欠史八代の時代)、ヤマト王権にとって北近畿の「丹波・丹後勢力」は、日本海交易を握る強大なライバルであり、どうしても組み込みたいパートナーでもありました。 第9代開化天皇は、この地を治める丹波大県主由碁理の娘、竹野媛を妃として迎えます。これは典型的な政略結婚であり、ヤマトと丹波の同盟の証でした。

謎多き「帰郷」

しかし、伝説はここで終わりません。竹野媛は後に故郷である丹後(竹野)へ帰郷し、そこで余生を過ごしたと伝えられています。 『古事記』や『日本書紀』には「離縁された」という明確な記述はありませんが、皇后(大后)の座には継母である伊香色謎命(いかがしこめのみこと)が就いており、竹野媛は実質的に都を離れることになりました。

皇祖神を祀るという意味

帰郷した竹野媛は、「天照皇大神」を祀り、これが竹野神社の起源となったとされます。 これは非常に重要な意味を持ちます。たとえ都を離れても、彼女は「天皇の妃」としてのアイデンティティを持ち続け、ヤマトの神を故郷に根付かせたということです。彼女が持ち帰ったのは、単なる信仰ではなく「ヤマト王権との血の繋がり」という政治的な正統性でした。

日子坐王と丹後王国の平定

竹野媛の帰郷は、単なる悲恋や隠居ではありませんでした。彼女が生んだ皇子、日子坐王(ひこいますのみこ)の存在がそれを証明しています。

日子坐王は、崇神天皇(第10代)の時代に「四道将軍」の一人として丹波に派遣され、陸耳御笠(くがみみのみかさ)をはじめとする土着の勢力(鬼伝説のモデルとも言われる)を討伐・平定しました。

  • 母(竹野媛): 地元豪族の血を引く象徴的存在として、在地勢力を精神的に懐柔する。
  • 子(日子坐王): ヤマトの武力と権威を背景に、軍事的に平定する。

竹野神社が鎮座するこの地は、母と子が連携して「独立性の高かった丹後」を「ヤマトの一部」へと書き換えていった、その最前線基地だったと推測できるのです。神社の近くにある巨大前方後円墳「神明山古墳」(全長190m)は、まさにこの時期の絶大な権力を示しており、竹野媛の父・由碁理あるいはその一族の墓と目されています。

古代の母系と政治が交錯する聖地

竹野神社は、単に「古い神社」というだけでなく、古代日本の国家形成期における「中央(ヤマト)」と「地方(丹後)」の緊張関係と融合を象徴する場所です。

主祭神である天照皇大神の背後には、故郷と都の狭間で生きた竹野媛の姿があり、その血脈は息子の日子坐王を通じて、後の丹後・但馬の支配者たちへと受け継がれていきました。

白い五本線の筋塀を見上げるとき、そこには「元皇后」の誇りと、古代丹後王国の終焉、そして新たな時代の始まりが重なって見えてくるはずです。

アクセス方法

  • 住所: 京都府京丹後市丹後町宮245
  • グーグルマップの位置情報
  • アクセス:
    • 【車】山陰近畿自動車道「京丹後大宮IC」から約40分。
    • 【公共交通】京都丹後鉄道「峰山駅」下車、丹後海陸交通バス(海岸線・経ヶ岬行き等)に乗り換え約30分、「竹野」バス停下車すぐ。
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