群馬県民なら誰もが知る「上毛かるた」。その「む」の札に「昔を語る 多胡の古碑(たごのふるひ)」と詠まれている石碑をご存知でしょうか 。
群馬県高崎市に静かに佇むこの「多胡碑(たごひ)」は、ただの古い石碑ではありません。奈良時代初期の和銅4年(711年)頃に建立され 、国の「特別史跡」に指定 、さらに栃木県の那須国造碑、宮城県の多賀城碑と共に「日本三古碑」の一つ と称されます。
そして2017年、近隣の「山上碑」「金井沢碑」と共に「上野三碑(こうずけさんぴ)」として、ユネスコ「世界の記憶」に登録されました 。
なぜこの石碑が、1300年の時を超えて私たちを魅了するのか? この記事では、多胡碑に秘められた律令国家の壮大なドラマ、書道史上の奇跡、そして現地への訪問ガイドまで、その魅力を解説します。
多胡碑の建立の背景と碑文の謎
多胡碑が建てられた和銅4年(711年)は、平城京への遷都(710年)の翌年 。日本が「律令国家」として中央集権体制を確立しようと必死だった時代です。
この多胡碑は、単なる記念碑ではありません。碑文が「弁官符(べんかんふ)」という言葉で始まる通り 、これは当時の国家最高機関「太政官(だじょうかん)」から発せられた「公式な行政命令書」そのものを、石に刻んだものなのです。
碑文に刻まれた国家プロジェクト
では、80文字の碑文 には何が書かれているのでしょうか?
【碑文の現代語訳】
朝廷の弁官局から命令があった。 上野国(群馬県)の片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、「羊」に支配を任せる。 郡の名は「多胡郡(たごのこおり)」としなさい。 和銅4年3月9日 甲寅に命令が伝えられた。
【発給責任者】左中弁正五位下 多治比真人(たじひのまひと) 【太政官の重鎮たち】 二品 穂積親王(ほづみのみこ、天武天皇の皇子) 左太臣正二位 石上尊(いそのかみのみこと、石上麻呂) 右太臣正二位 藤原尊(ふじわらのみこと、藤原不比等)
署名者が「奈良時代のオールスター」
わずか三百戸の小さな郡(多胡郡)を設置する命令書に、皇族トップの穂積親王、左大臣の石上麻呂、そして藤原不比等(ふじわらのふひと)が署名しています。
藤原不比等といえば、大宝律令を編纂し、平城京遷都を主導した、奈良時代の事実上の最高権力者。彼らが総出で名を連ねています。
なぜ、この地に?渡来人との関係
なぜ中央政府は、この上野国(群馬)の地に、これほどまでに肩入れしたのでしょうか。 その鍵は、当時の上野国が、朝鮮半島などからの渡来人(渡来系氏族)が多く住む、最先端の技術があった点にあります 。馬の飼育(「群馬」の語源とも)、絹織物、鉄器生産など、国家の富と軍事力を支える技術が集積していたのです 。
多胡郡の設置は、これら「戦略的に重要な技術者集団」を、在地の豪族から切り離し、朝廷の直轄管理下に置くための、藤原不比等らによる国家戦略だった可能性が非常に高いのです。
謎の人物「羊」とは?
碑文には、新設の多胡郡を「羊に給いて(羊に支配を任せる)」とあります 。この「羊」こそが最大の謎です。 地元には「多胡羊太夫(たごのひつじだゆう)」という伝説も残っており 、この「羊」とは、朝廷が信頼を寄せた渡来系のリーダーであり、彼を初代の郡の長官(郡司)に任命した「任命書」こそが、この多胡碑だったのではないか、と解釈されています。
六朝の風をまとう「もう一つの最先端」

多胡碑の価値は、歴史的背景だけではありません。「日本三古碑」の一つとして書道史においても特異な輝きを放っています 。
当時の都(平城京)では、中国・唐の流麗で端正な「写経体(しゃきょうたい)」が流行していました。しかし、多胡碑の書風はそれとは全く異なります。
- 力強く、豪放: ゆったりとした字間・行間に、角張り(方筆)で、はちきれんばかりに力強い文字が配置されています 。
- 自由な書体: 楷書を基本としながらも、行書体や古体(「藤」の字など)が混在しています 。
- 源流は「北魏」: この書風のルーツは、同時代の唐ではなく、それより古い中国の南北朝時代(5~6世紀)の、特に北魏(ほくぎ)で流行した「北碑(ほくひ)」の書風(六朝の余風)にあるとされています 。
なぜ、100年以上も前の中国の古い書風が? それは、この書風が、紙に書く「唐風」とは別系統で、石に文字を刻む専門技術として、朝鮮半島経由で渡来系の技術者集団によってもたらされた「もう一つの最先端」だったからです 。
内容(渡来系集団のための郡設置)と、形式(渡来系技術者による北碑の書風)が奇跡的に一致した、日本古代史の「生きた証人」なのです。
なぜユネスコ「世界の記憶」に?「上野三碑」の物語

上野三碑とは、近接する以下の三碑を指します 。
- 681年 山上碑(やまのうえひ): 僧・長利が、亡き母への私的な想いを、日本語の語順のまま漢字を並べる「変則漢文」で記した(個人の文化受容)。
- 711年 多胡碑(たごひ): 中央政府が、公式な漢文(官符)を用い、律令制度をこの地に確立した(国家による政治的受容)。
- 726年 金井沢碑(かないざわひ): 在地の豪族が、一族の繁栄を願い、仏教思想に基づいて供養を行った(社会・家族による宗教の受容)。
わずか45年の間に、この東国の地で、異文化(漢字・律令・仏教)が「個人」→「国家」→「社会」へと浸透し、根付いていくプロセスが、三つの石碑によって時系列で証明されているのです 。
この、東アジアの文化交流と変容の記録ともいえる世界的な稀少性が評価され、2017年、ユネスコ「世界の記憶」に登録されました 。
多胡碑 訪問・アクセスガイド
1300年前の「本物」が、今も建立の地にあります。ぜひ現地でその迫力を体感してください。
多胡碑・多胡碑記念館(基本情報)

多胡碑は、風雨から守るための「覆屋(おおいや)」の中で大切に保存されており、ガラス越しに間近で見学できます 。 隣接する「多胡碑記念館」では、上野三碑の実物大レプリカや、古代多胡郡の考古資料、中国の拓本などが展示されており、多胡碑の背景を深く学べます 。
- 所在地: 〒370-2107 群馬県高崎市吉井町池1085 多胡碑
- 開館時間: 午前9時30分~午後5時(入館は午後4時30分まで)
- 休館日: 月曜日(祝日・振替休日の場合は開館し、翌日休館)、年末年始(12月28日~1月4日)
- 観覧料(入館料): 無料 (※上野三碑のユネスコ「世界の記憶」登録を記念し、令和8年(2026年)3月31日まで無料です)
アクセス方法(車の場合)
- 高速道路から: 上信越自動車道「吉井I.C.」から約7分
- 高崎市内から: JR高崎駅から車で約15分
- 駐車場: 無料駐車場あり(大型車も駐車可能)
アクセス方法(公共交通機関の場合)
- 最寄り駅: 上信電鉄「吉井駅」 (JR高崎駅で「上信電鉄」に乗り換えてください)
- 吉井駅から:
- 徒歩: 約30分
- タクシー: 約5分
- 無料バス: 「上野三碑めぐりバス」(無料)
- 吉井駅を起点に、多胡碑・山上碑・金井沢碑などを巡回します 。
- (注意) ジャンボタクシー車両(定員9名)での運行のため、満員の場合は乗車できません。50分間隔(一部時間帯除く)での運行です 。
もっと深く知りたい方へ参考文献
多胡碑の魅力にハマった方は、ぜひ専門書も手に取ってみてください。
- 『多胡碑・多賀城碑』(天来書院選書1)
- 書道史の観点から、美しい拓本(原寸大)と共に多胡碑の書風をじっくり鑑賞できる一冊。書道ファン必携です。
- 天来書院 公式サイト
- 『多胡碑が語る古代日本と渡来人』(土生田 純之 編, 高崎市 編)
- 多胡碑建立1300年を記念し、考古学や古代史の最新成果をまとめた専門書。渡来人や古墳文化など、当時の「上毛野(こうずけの)」の歴史的背景を深く知ることができます。
- 吉川弘文館 公式サイト|Amazon
- 『日本古代金石文の研究』(東野 治之 著)
- 日本の古代金石文研究の権威による専門書。多胡碑を含む日本の古代石碑を網羅的に分析しています。学術的な探求をしたい方向け。
- 取扱店: 岩波書店(オンデマンド版)



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