【垂仁天皇】埴輪・相撲・伊勢神宮の起源に隠されたヤマト王権の真実

歴史探訪
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古代日本の歴史において、神話の霧の中から「実在の大王」としての姿が浮かび上がってくる瞬間があります。それが、第11代・垂仁天皇(すいにんてんのう)の時代です。

父・崇神天皇と共に「イリ王朝」を築き、ヤマト王権のシステムを盤石なものにしたこの大王の治世は、現在の私たちにつながる日本の「かたち」――伊勢神宮相撲、そして古墳の埴輪――が生まれた重要な転換点でした。

今回は、『日本書紀』『古事記』のドラマチックな伝承と、最新の考古学調査が明かす驚きの事実を交差させ、垂仁天皇の治世を徹底解剖します。


伝承と実在の狭間で イリヒコ王朝の「守成の君」

「欠史八代」後の最初のリアリティ

第2代から第9代までの天皇は「欠史八代」と呼ばれ、その実在性が長く議論されてきました。しかし、第10代崇神天皇(ミマキイリヒコ)と、その息子である第11代垂仁天皇(イクメイリヒコ)の代になると、歴史の解像度は一気に上がります。

注目すべきは、二人の名前に共通する「イリヒコ(入彦)」という称号です。 これは4世紀前後の王族特有の称号であり、後世の創作とは考えにくい古い記憶を留めています。歴史学の有力な説である「王朝交替説」では、この二代を中心とする王統を「イリ王朝(三輪王朝)」と定義しています。

  • 崇神天皇: 勢力圏を拡大し、王権を創始した「創業の君」
  • 垂仁天皇: その支配を安定させ、制度を整えた「守成の君」

彼が宮を置いた「纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)」は、初期ヤマト王権の首都とされる纒向遺跡(奈良県桜井市)のエリア内にあり、考古学的にもその実在の可能性は極めて高いとされています。


愛と野望のサスペンス 狭穂彦王の反乱

垂仁天皇の治世を語る上で欠かせないのが、王権を揺るがしたクーデター未遂事件、「狭穂彦王(サホヒコ)の乱」です。これは単なるお家騒動ではなく、大和盆地の「北部勢力(佐保)」と「南部勢力(三輪・纒向)」の覇権争いでした。

「夫と兄、どちらが愛しいか」

皇后である狭穂姫命(サホヒメ)は、兄・狭穂彦王から恐ろしい問いを投げかけられます。 「お前は夫(天皇)と兄、どちらが愛しいか?

兄を選んでしまった彼女は、暗殺用の短刀(八塩折之紐小刀)を渡されます。しかし、実行の寸前、天皇の寝顔に彼女の涙が落ち、計画は露見しました

炎上する稲城と「もの言わぬ皇子」

反乱を起こした兄は、稲束を積み上げた「稲城(いなぎ)」に立て籠もります。皇后は兄への情愛、あるいは一族の罪を背負うため、炎上する城の中へ身を投じました。 彼女が最期に城の外へ差し出した赤子こそが、後の誉津別命(ホムツワケ)です。

この皇子は、母の死のショックか、あるいは出雲大神の祟りか、大人になっても言葉を発することができませんでした。彼が言葉を取り戻すために出雲へ旅するエピソードは、ヤマト王権が武力で出雲を制圧した後も、その「霊的な権威」には畏敬の念を払い、鎮魂(和解)を必要としていた政治状況を物語っています。


国技「相撲」の起源 野見宿禰と当麻蹶速

垂仁天皇の時代、宮廷行事として「捔力(すまい/力比べ)」が導入されました。これが現在の相撲の起源ですが、その実態はスポーツとは程遠いものでした。

古代のデスマッチ

「この世に敵なし」と豪語する大和の怪力・当麻蹶速(タイマノクエハヤ)。 対するは、出雲から召喚された野見宿禰(ノミノスクネ)

『日本書紀』の記述は凄惨です。

「互いに足を挙げて蹴り合い、宿禰は蹶速の脇骨を蹴り折り、さらに腰を踏み砕いて殺した」

この勝利により、野見宿禰は蹶速の領地を没収して天皇に仕えることになります。これは、大和の土着勢力を出雲系の新興勢力が圧倒し、王権の武力装置として組み込まれていく過程を象徴しています。


埴輪は本当に「出雲」から来たのか?

垂仁天皇最大の功績とされるのが、「殉死の禁止」と「埴輪(ハニワ)の導入」です。

『日本書紀』が語る美談

かつては王が死ぬと近習も生き埋めにされていました。その残酷さに心を痛めた天皇に対し、野見宿禰が提案します。 「生きている人の代わりに、土で作った人形を埋めてはどうでしょう」 彼は出雲から土部(はじ)100人を呼び寄せ、粘土で人や馬を作り献上しました。これが埴輪の始まりとされ、野見宿禰は後に古墳造営を司る「土師氏(はじし)」の祖となります。

考古学が暴く「吉備起源説」

しかし、近年の考古学調査はこの伝説に「待った」をかけています。 実は、埴輪のルーツは出雲ではなく、吉備(岡山県)の「特殊器台(とくしゅきだい)にあることが確実視されているのです。

なぜ歴史書は「出雲起源」としたのでしょうか?

  1. 土師氏の政治工作 記事編纂に関わった土師氏が、祖先(野見宿禰)の功績にするため伝承を書き換えた。
  2. 吉備勢力の隠蔽 当時、ヤマト王権に匹敵する力を持っていた吉備の影響力を隠し、すべてを天皇の徳とするため。

史実としては、垂仁天皇の時代(4世紀前半)はちょうど「円筒埴輪」が完成し、全国へ普及し始めた時期と重なります。「誰が作ったか」はともかく、「この時代に葬送儀礼の大改革があった」こと自体は事実と言えるでしょう。


地政学で読み解く「元伊勢」巡行

現在、伊勢神宮に祀られている天照大神は、かつては天皇と同じ宮殿(同床共殿)で祀られていました。それを外に出し、理想の聖地を探す旅に出たのが、垂仁天皇の皇女・倭姫命(ヤマトヒメ)です。

聖地への長い旅路

彼女の旅は「元伊勢(もといせ)」と呼ばれる伝承地を残しました。そのルートを地図で追うと、驚くべき事実が見えてきます。

  1. 大和(三輪・宇陀)を出発
  2. 伊賀・近江へ北上
  3. 美濃(岐阜)を経由
  4. 伊勢へ南下

なぜ真っ直ぐ伊勢へ向かわず、北へ大きく迂回したのでしょうか? このルートは、古代の「東山道」「東海道」といった主要幹線道路と一致します。つまり、皇祖神の威光とともにこのルートを巡ることは、ヤマト王権が東国への交通権と支配権を掌握するという、極めて高度な軍事的・政治的デモンストレーションだったのです。

こうして伊勢に「恒久的な祭祀センター」が確立されたことで、ヤマト王権の宗教的権威は不動のものとなりました。


不老不死への憧憬 常世の国と田道間守

最後に、垂仁天皇の治世を締めくくる美しくも悲しい伝説をご紹介します。 晩年の天皇は、忠臣・田道間守(タジマモリ)に命じ、遥か海の彼方にある「常世の国」へ不老不死の霊薬を取りに行かせます

その霊薬とは「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)」。 現在の「橘(タチバナ/日本固有の柑橘類)」のことです。

田道間守は10年の歳月をかけて帰国しますが、時すでに遅く、天皇は崩御した後でした彼は天皇の陵墓に橘の枝を捧げ、泣き叫びながら後を追うように亡くなりました。 現在、お菓子の神様(菓祖)としても祀られる田道間守。垂仁天皇陵の周濠に浮かぶ小さな島は、この忠臣の墓だと伝えられています


史跡ガイド 垂仁天皇陵(宝来山古墳)

実際にこの歴史の舞台を訪れてみませんか?

  • 名称: 菅原伏見東陵(通称:宝来山古墳)
  • 場所: 奈良県奈良市尼辻西町(近鉄橿原線「尼辻駅」から徒歩圏内)
  • グーグルマップの位置情報
  • 特徴:
    • 全長227メートルの巨大前方後円墳。
    • 築造時期は4世紀前半〜中葉とされ、垂仁天皇の実在推定時期と見事に一致します。
    • 水を満々とたたえた周濠が美しく、日本で最も美しい古墳の一つと言われています。

【見どころポイント】 拝所の右手前方、周濠の中にぽっかりと浮かぶ小さな島(陪塚)を探してください。それが、伝説の忠臣・田道間守の墓とされる場所です。 また、この古墳からは実際に初期の埴輪片が見つかっています。伝説と歴史が交差する場所で、1600年前の王権の息吹を感じてみてはいかがでしょうか。


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