【倭文神社】なぜ倭文神社は伯耆国一宮なのか?出雲の女神と機織りの神、千年の歴史

鳥取県
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鳥取県のほぼ中央、風光明媚な東郷池のほとりに、千二百年以上の時を超えて静かに佇む神社があります。その名は倭文神社(しとりじんじゃ)。かつてこの地が「伯耆国(ほうきのくに)」と呼ばれた時代、最も尊い神社として崇められた「一宮」です。

この神社には、二つの異なる顔があります。一つは、古代の機織り技術者集団が祀った祖神を起源とする、国家史に名を刻む格式高い顔。もう一つは、出雲からやってきた悲劇の女神が、人々の暮らしに寄り添い、特に「安産」の祈りを受け止めてきた、民衆信仰の中心としての顔です。

なぜ、この神社は伯耆国一宮となったのか。その地位を証明する「国宝」とは何か。そして、今なお多くの人々を引きつける神話の力とは。この記事では、倭文神社の奥深い歴史と神話の物語を紐解き、関連する史跡を巡る知的な旅へとご案内します。

二柱の主神が織りなす物語

倭文神社の神話を理解する鍵は、公式な主祭神と、民衆信仰の中心である女神という「二重構造」にあります。この二柱の神の物語が、神社の複雑で豊かな性格を形作っています。

公式の主祭神 機織りと武勇の神・建葉槌命(たけはづちのみこと)

神社の名を冠する「倭文(しず)」とは、麻などを染めて織られた日本古来の織物のこと 。倭文神社の創祀は、古代大和王権の時代、この地で織物生産を担った専門職集団「倭文部(しとりべ)」が、その祖神である建葉槌命(たけはづちのみこと)を祀ったことに始まるとされています 。   

建葉槌命は、天照大神が天岩戸に隠れた際に、神々が捧げる布を織ったとされる機織りの神です 。しかし、その力はそれだけにとどまりません。『日本書紀』には、葦原中国平定のクライマックスで、最後まで抵抗した星の神・天香香背男(あまつみかかぜお)を、最強の武神である経津主神や武甕槌神ですら平定できなかったところ、建葉槌命がこれを服従させたと記されています 。   

つまり、建葉槌命は文化(機織り)と武勇を兼ね備えた強力な神格であり、倭文神社の歴史的・語源的な正統性を象徴する存在なのです。

民衆信仰の中心 安産の女神・下照姫命(したてるひめのみこと)

一方で、倭文神社で古くから人々の篤い信仰を集めてきたのは、もう一柱の神、下照姫命(したてるひめのみこと)です 。彼女は、縁結びで知られる出雲の大神・大国主命の娘 。高天原から降臨した天稚彦(あめのわかひこ)と結婚しますが、夫に先立たれるという悲劇に見舞われます 。   

社伝によれば、夫と死別した下照姫命は、悲しみのうちに出雲を離れ、従者と共にこの地にたどり着きました。そして、生涯を終えるまで、この地の人々に安産の指導、農業開発、医薬の普及に尽力したと伝えられています。

この地域に根差した伝承は、下照姫命を単なる神話上の存在から、人々の生活を守り、育む慈愛に満ちた守護神へと昇華させました。特に「安産の神」としての信仰は絶大で、今日に至るまで神社の最も重要な役割の一つとなっています 。   

祭神の二重性と出雲との深い絆

興味深いことに、大正時代に至るまで、倭文神社では下照姫命こそが主祭神であると一般に考えられていました。これは、創祀氏族の祖神(建葉槌命)の記憶が薄れる一方で、人々の切実な願いに応える女神(下照姫命)への信仰が、より深く地域に根付いていったことを物語っています。

その証拠に、倭文神社に配祀されている神々を見ると、事代主命、建御名方命、味耜高彦根命といった大国主命の子や、夫である天稚彦命など、出雲神話体系に連なる神々が名を連ねています 。これは、この神社が下照姫命を中心とする出雲系の信仰圏と極めて強い結びつきを持っていたことを示しています。   

権威と信仰の千年史

倭文神社の歴史は、朝廷からの崇敬を集めた「公の歴史」と、地域の領主や民衆に支えられた「地域の歴史」が交錯する壮大な絵巻物です。

文献上の初見と平安時代の隆盛

具体的な創建年代は不明ですが、文献上の初見は平安時代初期の医学書『大同類聚方』(808年頃成立)に遡ります 。そこには「川村郡の倭文神社の神主の家に伝わる処方は、元は下照姫神の処方である」という趣旨の記述があり、この時点で既に神社が存在し、下照姫命の医薬の神としての神徳が知られていたことがわかります。   

平安時代中期、倭文神社は国家の公的な社格制度の中に位置づけられます。延長5年(927年)に完成した『延喜式』神名帳には、伯耆国川村郡の「倭文神社」として記載され、国家の祭祀対象となる「式内社」の小社に列せられました 。さらに『日本紀略』によれば、天慶3年(940年)には神階が従三位から正三位へと昇叙されており、朝廷からその神威を高く評価されていたことがうかがえます 。   

「一宮」の考古学的証明 伯耆一宮経塚

倭文神社が「伯耆国一宮」であったことを揺るぎない事実として証明するのが、境内に存在する国指定史跡「伯耆一宮経塚」と、そこから出土した国宝「伯耆一宮経塚出土品」です 。   

経塚とは、仏教の経典などを後世に伝えるために埋めた塚のこと。平安時代後期、釈迦の教えが廃れるという「末法思想」が広まる中、未来仏である弥勒菩薩が出現する時代まで教えを保存しようと、全国で造営されました 。   

大正4年(1915年)、この経塚の発掘調査が行われ、歴史を揺るがす発見がありました。出土した銅製の経筒(経典を入れる容器)には、康和5年(1103年)の年紀と共に、236文字の銘文が刻まれていたのです。その銘文の中に、はっきりとこう記されていました。

「伯耆国河村東郷御坐一宮大明神」

これは、12世紀初頭の時点で、倭文神社が明確に「一宮」として認識されていたことを示す、動かぬ考古学的証拠です。この発見は、神社の地位を伝承の領域から、検証可能な歴史的事実へと引き上げました。経筒のほか、奈良時代に遡る金銅観音菩薩立像なども出土し、これら一括遺物は国宝に指定され、現在は東京国立博物館に寄託されています 。   

戦乱の世を越えて 中世から近世へ

平安時代の隆盛の後、中世の戦乱期には社領を没収されるなど苦難の時代を迎えます 。しかし、地域の有力武将たちの崇敬によって復興が図られました。天文23年(1554年)には尼子晴久が社殿を再建し、その後、羽衣石城主であった南条氏も社領を復旧させています 。   

江戸時代に入ると、鳥取藩主・池田氏の祈願所として篤い庇護を受け、神社の経済的基盤は安定しました 。現在の本殿は、文化15年(1818年)に再建されたものです 。   

近代国家の社格と現代

明治維新後、近代社格制度のもとで県社に列せられ、昭和14年(1939年)には、国家が管理する特に由緒深い神社とされる国幣小社(こくへいしょうしゃ)に昇格 。これは、国家からその歴史と格式が最高レベルで認められたことを意味します。戦後は宗教法人となり、現在は神社本庁が定める別表神社として、全国的にも重要な神社の一つに数えられています 。   

神話と歴史を巡る旅へ

倭文神社の物語は、社殿の中だけで完結しません。周辺には、下照姫命の伝説や伯耆国の歴史を物語る史跡が点在しています。

下照姫命の足跡を辿る

  • 御着船の地と亀石(湯梨浜町宇野) 社伝によれば、下照姫命は亀に乗って宇野の海岸にたどり着いたとされます。姫を待つうちに岩になってしまったという「亀石」の伝説が残るこの地は、物語の始まりの場所です。
  • 宮戸弁天(湯梨浜町宮戸) 東郷池のほとりにある巨岩と鳥居が印象的な「宮戸弁天」。ここは倭文神社の境外社の一つで、下照姫命が釣りを楽しんだ場所と伝えられています。姫のお使いである白蛇の伝説も残り、神秘的な雰囲気が漂います。

伯耆国の式内社を訪ねて

『延喜式』に名を連ねる伯耆国の古社を巡ることで、倭文神社が置かれていた当時の宗教的ネットワークを感じることができます。

  • 波波伎神社(ははきじんじゃ)(倉吉市) 倭文神社と同じく川村郡に属した式内社。伯耆国の国府に近い有力神社でした 。
  • 大神山神社(おおがみやまじんじゃ)(米子市・大山町) 伯耆国二宮。霊峰・大山を神体とする山岳信仰の中心地です 。
  • 倭文神社(倉吉市) 伯耆国三宮。湯梨浜町の倭文神社と同じ社名ですが、こちらは久米郡の式内社です 。古代伯耆国における倭文部の広がりを感じさせます。

参拝案内と参考文献

倭文神社へのアクセス

  • 所在地: 〒689-0707 鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内754
  • Googleマップ: Googleマップで倭文神社の位置を確認する
  • 車でのアクセス
    • 米子自動車道「湯原IC」から約60分。
    • 鳥取自動車道「鳥取IC」から約50分。
    • 駐車場:乗用車20台、観光バス1台駐車可能 。   
  • 公共交通機関でのアクセス
    • JR山陰本線「松崎駅」下車、タクシーで約10分 。   
    • 松崎駅前から日ノ丸バスに乗車、「藤津入口」停留所下車、徒歩約20分 。   

もっと深く知るための参考文献

この記事で紹介した歴史や神話にさらに興味を持たれた方は、以下の書籍を手に取ってみてはいかがでしょうか。

  • 『鳥取県の歴史』(山川出版社) 鳥取県の通史をコンパクトにまとめた一冊。倭文神社をはじめとする県内の歴史的背景を理解するのに最適です。
  • 『新鳥取県史』シリーズ より専門的で詳細な情報を求める方向けの叢書。鳥取県立公文書館から購入可能です。

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