6世紀前半、越前(現在の福井県)から突如現れ、ヤマト王権の大王となった継体天皇。 謎多きこの大王の最期について、長らく歴史ファンの間で囁かれてきた「ある噂」をご存じでしょうか。
それは、「継体天皇はクーデターで暗殺され、その後、日本は二つの朝廷に分裂していた」という説です。 いわゆる「辛亥の変(しんがいのへん)」と「二朝並立説」。
歴史書に残された不可解な「死」の記録と、近年の今城塚古墳の発掘調査が語る「生」の痕跡。 今回は、文献史料が描く権力闘争と、考古学が明かす意外な真実を突き合わせ、古代史の闇に光を当てます。
歴史書が語る「不穏な死」の謎
なぜ「暗殺説」や「クーデター説」が生まれたのか。その発端は、誰もが知る歴史書の「不自然な記述」にあります。
記録された「空白の2年」と食い違う没年
『古事記』と『日本書紀』。この二つの正史で、継体天皇の没年が食い違っていることは有名なミステリーです。
- 『古事記』: 527年没(43歳)
- 『日本書紀』: 531年没(82歳)
さらに『日本書紀』では、継体天皇の死後、次の安閑天皇が即位するまでになぜか2年間の「空位」期間が存在します。王位継承がスムーズに行われなかった証拠とも読めるこの空白は、何か異常事態が起きていたことを暗示しています。
『百済本記』が伝える衝撃のニュース

決定的なのが、『日本書紀』が引用している朝鮮半島の記録『百済本記』の一節です。 そこには、辛亥の年(531年)の出来事として、こう記されています。
「日本の天皇及び太子・皇子、倶(とも)に崩薨(ほうこう)りましぬ」
天皇だけでなく、後継者である太子や皇子まで「全員同時に死んだ」というのです。 病死や老衰で、王族の主要メンバーが一斉に亡くなることがあるでしょうか? この記述は、王族全体を巻き込む大規模な政変(クーデター)があった可能性を強烈に突きつけました。
幻の内乱劇「二朝並立説」とは?
この記述をもとに、歴史学者の林屋辰三郎氏らが唱えたのが、古代史ファンを熱狂させた「二朝並立説(にちょうへいりつせつ)」です。 これは単なる暗殺事件にとどまらず、日本の朝廷が真っ二つに割れて争ったとする、壮大な内乱のシナリオです。

「二つの朝廷」の対立図
この説では、継体天皇の死後、ヤマト王権は以下の二大派閥に分裂したと考えます。
【Aチーム:安閑・宣化朝(北朝的な存在)】
- 天皇: 安閑天皇(長男)、宣化天皇(次男)
- 支持基盤: 大伴氏・物部氏(旧来の軍事貴族)
- 特徴: 武力による統治を重視する「守旧派」。しかし、朝鮮半島政策の失敗により求心力を失いつつありました。
【Bチーム:欽明朝(南朝的な存在)】
- 天皇: 欽明天皇(継体と手白香皇女の息子)
- 支持基盤: 蘇我氏(新興の実務官僚)
- 特徴: 渡来人の技術や経済力を活用する「革新派」。より強力な中央集権国家を目指していました。
つまり、継体天皇の死(暗殺?)をきっかけに、「大伴・物部」VS「蘇我」という、国の舵取りを巡る巨大な派閥抗争が勃発。二人の天皇が同時に即位し、互いに正統性を主張して争ったというのです。
並立を裏付ける「時間の歪み」
なぜ「同時にいた」と言えるのか。その根拠の一つが仏教伝来の年です。 古い史料(『上宮聖徳法王帝説』など)には、仏教が伝わったのは「欽明天皇の時代の戊午の年(538年)」とあります。
しかし『日本書紀』によれば、538年はまだ兄の宣化天皇の在位中なのです。 「538年は宣化天皇の時代のはずなのに、欽明天皇の時代だと記録されている」。 この矛盾を解決する唯一の答えが、「538年には二人の天皇が同時に存在していた」という二朝並立説でした。
今城塚古墳が覆した「クーデター説」
文献のパズルを組み合わせると、クーデターと内乱は「あった」ように思えます。 しかし、大阪府高槻市にある継体天皇の真の陵墓「今城塚古墳(いましろづかこふん)」の発掘調査が、その定説を根底から揺るがしました。

巨大すぎる「寿陵」
今城塚古墳は全長約350m(堤含む)にも及ぶ、淀川流域最大の前方後円墳です。 詳細な調査の結果、この古墳は天皇が生前から計画的に造営を進めていた「寿陵(じゅりょう)」であることが判明しました。
もしクーデターで殺害され、国が二つに割れて戦争状態にあったなら、これほど巨大で計画的なお墓を完成させる余裕などどこにもないはずです。
圧巻の「埴輪祭祀」が示す平穏な継承

さらに決定的だったのが、古墳から出土した230点以上もの形象埴輪群です。 これらは、大王の死後の儀式「殯(もがり)」や、次の大王への権力継承の儀礼を、整然と隊列を組んで再現したものでした。
クーデターで殺された王のために、国家総出でこれほど手厚く、秩序だった葬送儀礼を行うでしょうか? 考古学の答えは「NO」です。今城塚古墳の姿は、「安定した王権による、平穏で厳粛な葬送」を証明していたのです。
「辛亥の変」の正体
では、あの「天皇と皇子が同時に死んだ」という不穏な記録は何だったのでしょうか? 文献史料と考古学の成果を統合した、現在の最有力な結論は以下の通りです。
- クーデターはなかった: 今城塚古墳の状況から、継体天皇は天寿を全うし、手厚く葬られたことは間違いありません。
- 激しい「派閥争い」はあった: 「戦争」まではいかずとも、大伴・物部ライン(旧勢力)と蘇我ライン(新勢力)の間で、次期政権を巡る激しい政治的な駆け引きは存在したでしょう。
- 海外へ伝わった誤報: 偉大な大王の死と、その後の権力移行期のゴタゴタが、海を渡る過程で誇張され、百済側に「全員死んだ(大変な政変が起きている)」という誤報として伝わってしまった可能性が高いのです。
つまり「辛亥の変」とは、実際の流血沙汰ではなく、「国外に伝わった誤報」と「史料の矛盾」が生み出した、幻の事件だったと言えるでしょう。
実際に現地へ行ってみよう!
幻のクーデター説を否定し、真実を語ってくれた今城塚古墳。現在は、日本で唯一「立ち入れる大王墓」として公園整備されています。
今城塚古墳(今城塚古代歴史館)
かつての大王の墓の上を散歩できるだけでなく、隣接する歴史館では、あの大規模な埴輪祭祀の再現展示(実物大)を見ることができます。
- 住所: 大阪府高槻市郡家新町
- グーグルマップの位置情報
- アクセス:
- JR京都線「摂津富田」駅、または阪急京都線「富田」駅から高槻市営バス「南平台経由奈佐原」行き乗車、「今城塚古墳前」下車すぐ。
- 見どころ: 復元された埴輪祭祀場(圧巻のスケールです!)、歴史館の常設展示。
「辛亥の変」という古代の誤報騒動に思いを馳せながら、埴輪たちの列を眺めてみてはいかがでしょうか。




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