京都府京丹後市、日本海を見下ろす竹野の海岸段丘に、知る人ぞ知る古代の聖地があります。 その名は「大成古墳群」。
眼下には、丹後を代表する景勝地であり、巨大な柱状節理の奇岩「立岩(たていわ)」がそびえ立ちます。なぜ、古代の人々はこの絶景の地に墓を築いたのでしょうか?
そこには、かつてヤマト政権と肩を並べるほど強大だった「丹後王国」の黄昏と、海を越えて活躍した一族のドラマが隠されていました。今回は、石室の構造変化が一気に見られる稀有な遺跡、大成古墳群の魅力を深掘りします。
「丹後王国」の残照と新しいリーダーの出現
丹後地域といえば、網野銚子山古墳(あみのちょうしやまこふん)など、ヤマト政権の大王墓に匹敵する巨大前方後円墳が存在したことで知られています。いわゆる「丹後王国」の存在です。
しかし、6世紀末になると、前方後円墳は築かれなくなります。代わって登場するのが、この大成古墳群のような「群集墳(ぐんしゅうふん)」です。
これは、一人の強大な王が支配する時代から、有力な氏族(豪族)たちが家族単位で墓を造る時代へと、社会が変化したことを示しています。彼らはヤマト政権と手を結びながらも、在地勢力として竹野川流域の豊かな生産力と、日本海の交易ルートを握り続けました。
大成古墳群の被葬者は、この地域の有力豪族「竹野君(たけののきみ)」の一族ではないかと考えられています。
古墳マニア必見「石室の進化」がひと目で見える

大成古墳群の最大の見どころは、狭い範囲内で横穴式石室の構造が劇的に変化していく様子を観察できる点です。現地で見学可能な第7号、8号、9号墳を比較してみましょう。
- 第7号墳(6世紀末):片袖式(かたそでしき)
- 通路(羨道)が部屋(玄室)の片側に寄っている、L字型の構造です。当時の丹後では最大級の大きさでした。
- 第8号墳(7世紀初頭):両袖式(りょうそでしき)
- 通路が部屋の中央に接続するT字型。空間が最も広く、技術的にも完成された形です。この時期、一族の権力が絶頂に達したことを物語っています。
- 第9号墳(7世紀初頭):無袖式(むそでしき)
- 通路と部屋の区別がない細長い形。簡素化されたとも、地域独自の様式とも言われます。
これらが短期間に連続して築かれている点は全国的にも珍しく、当時の建築トレンドや埋葬観念の変化を肌で感じることができる貴重なスポットです。
景観考古学で読み解く「立岩」への祈り

この古墳群の立地における最大の特徴は、なんといっても「立岩」を見下ろすロケーションにあります。
高さ20メートルの巨大な一枚岩である立岩は、現在でも山陰海岸ジオパークのシンボルですが、古代人にとっても畏怖すべき神聖な対象でした。
「景観考古学」という視点で見ると、彼らがここに墓を築いた理由は明らかです。 死後、自らの魂をこの巨岩と一体化させ、海からやってくる災厄を防ぐ「地域の守り神」になろうとしたのではないでしょうか。あるいは、彼らが海を舞台に活躍した「海民(かいみん)」であったからこそ、永遠に海が見える場所を選んだのかもしれません。
出土品が語る「国際派」豪族の実像
発掘調査では、豪華な副葬品が多数見つかっています。
- 金環(耳飾り): ヤマト政権中枢との繋がりを示す威信財。
- 碧玉や瑪瑙の玉類: 北陸や山陰との「玉の道」交易ルートを示唆。
- 多量の須恵器: 盛大な葬送儀礼が行われていた証拠。
特に、農具だけでなく武器(鉄刀や鉄鏃)も多く出土していることから、彼らが「武力」「経済力」「祭祀権」を兼ね備えたリーダーであったことが分かります。
伝説の「竹野媛」と思いを馳せる
この地には、『古事記』や『日本書紀』に登場する開化天皇の妃、「竹野媛(たけのひめ)」の伝説が残っています。彼女は一度故郷であるこの地に帰されたという悲劇的な伝承もありますが、中央と丹後を結ぶ重要な女性でした。
大成古墳群の被葬者たちは、この竹野媛の末裔にあたる「竹野君」の一族だった可能性が高いと言われています。風光明媚な竹野の海を眺めながら、神話の時代のロマンスと、実在した豪族たちの野望に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
現地へのアクセス・周辺情報
古墳群は公園として整備されており、石室の内部を見学することができます。
- 場所: 京都府京丹後市丹後町竹野
- アクセス: 京都丹後鉄道「網野駅」から車で約20分
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