和歌山の市街地に突如現れる、鬱蒼とした広大な森。
一歩足を踏み入れると、そこには伊勢神宮を彷彿とさせる静謐な空気が流れています。ここが、紀伊国一之宮「日前宮」です。
正式名称は「日前神宮(ひのくまじんぐう)」と「國懸神宮(くにかかすじんぐう)」。
一つの境内に二つの巨大な社殿が並立するという、極めて珍しい形式を持つ古社です。
しかし、この神社が真に興味深いのは、その「由緒」にあります。
この神社の御神体には、伊勢神宮の「八咫鏡(やたのかがみ)」にまつわる、ある秘密が隠されているのです。
今回は、日本神話「天岩戸」まで時計の針を戻し、なぜ和歌山に皇室ゆかりの「別格の宮」が存在するのか、その謎を紐解いていきます。
神話の深層 伊勢に先立つ「二つの鏡」の正体

私たちがよく知る天岩戸神話では、天照大御神が岩戸に隠れて世界が闇に包まれた際、八百万の神々が協力して鏡や勾玉を作り、祭りを行ったとされています。この時作られた鏡こそが、三種の神器の一つ「八咫鏡」であり、現在は伊勢神宮(内宮)に祀られています。
しかし、『日本書紀』にはいくつかの異なる伝承(一書)が記されており、その中の「第一の一書」には、非常に興味深い記述が残されているのです。
「八咫鏡」には“兄姉”がいた?
鏡作りの祖神である石凝姥命(いしこりどめのみこと)が、天香山(あめのかぐやま)の金を採って鏡を鋳造した際、八咫鏡が出来上がる「前」に、二つの鏡が作られていたというのです。
「是(これ)、即ち紀伊国に所坐(ましま)す日前神(ひのくまのかみ)なり」
(『日本書紀』第一の一書より)
つまり、伊勢の神宝が完成する直前に、その試作品、あるいは先駆けとして生まれた聖なる鏡こそが、現在の日前宮の御神体なのです。
日像鏡と日矛鏡 二つの「太陽」

日前宮に並立する二つの神宮には、それぞれの鏡が祀られています。これらは伊勢の鏡にとって「失敗作」ではありません。むしろ、共に生まれた「兄姉」として、異なる霊的意味が込められています。
- 日像鏡(ひがたのかがみ)/日前神宮「日の像(すがた)を写した鏡」名前の通り、太陽神である天照大御神の姿そのものを写し取ろうとした鏡です。太陽のエネルギーを最も純粋な形で宿した「原初の太陽信仰」の依代と言えるでしょう。
- 日矛鏡(ひぼこのかがみ)/國懸神宮「武威と守護の鏡」興味深いのは「鏡」でありながら「矛(ほこ)」の名を冠している点です。「國懸(くにかかす)」という社名は「国を懸(か)けて守る」という意味に通じ、国家守護の強い意志を感じさせます。
境内は「天岩戸神話」の再現空間
日前宮を参拝する際は、ぜひ「相殿(あいどの)」に祀られている神々の組み合わせにも注目してください。実はこの配置、天岩戸神話の役割分担そのものなのです。
| お宮 | 主祭神(鏡) | 配祀神(チーム) | 役割 |
| 日前神宮 | 日像鏡 | 石凝姥命(鏡作り) 思兼命(作戦立案) | 【計画と製作】 岩戸開きの準備を整えた頭脳・技術チーム |
| 國懸神宮 | 日矛鏡 | 玉祖命(勾玉作り) 鈿女命(踊り子)他 | 【実行と儀式】 祭祀を行い、場を動かした実行部隊 |
このように、二つの宮をお参りすることで、世界に光を取り戻したあの一連の儀式を追体験できる構造になっています。
歴史の証言者 神話を現実に変えた一族「紀氏」
では、このあまりにも巨大な権威を持つ神宝を、数千年にわたって守り続けてきたのは古代紀伊国を支配した豪族「紀氏」です。
「祭政一致」 まつりごとは、祀りごと
古代において、政治と祭祀は不可分でした。
紀氏はヤマト王権から「紀伊国造(きいのくにのみやつこ)」という長官の地位を認められると同時に、日前宮の祭祀を司る最高神官(宮司)の役割も代々世襲してきました。
紀氏にとって「鏡を正しく祀ること」は、単なる宗教儀礼ではなく、紀伊国全体の安寧を保証する国家公務そのものでした。日前宮が皇室と特別な関係を維持できたのは、紀氏が中央政界とパイプを持ち、祭祀を通じてその権威を支え続けてきたからに他なりません。
在地神「名草の神」を取り込む政治力

また、紀氏は巧みな政治力を持っていました。
日前宮が鎮座する地はかつて「名草郡(なぐさぐん)」と呼ばれ、名草姫命・名草彦命という強力な地主神が祀られていました。
紀氏は、自らの系譜にこれら名草の神々の名を組み込むことで、天孫系の「鏡の神話」を掲げつつ、土着の信仰も継承しました。よそ者であったかもしれない紀氏が、在地の民衆の心をも掌握していった統治のプロセスが、この神社の歴史には刻まれているのです。
神官にして武人 「毛抜形太刀」
境内には、重要文化財「毛抜形太刀(けぬきがたたち)」が所蔵されています。
これは本来、武官が身につける武器です。神聖な境内に、なぜ武器が? と思われるかもしれませんが、紀氏は「紀伊の水軍」などに代表される武門の家柄でもありました。
國懸神宮の「日矛鏡」が「矛」の名を持つように、古代において武力と神聖さは矛盾するものではありませんでした。この太刀は、紀氏が「神の威光を背負った武人」として君臨していた時代の証拠と言えるでしょう。
アクセス・参拝情報
日前宮は、深い森に囲まれていながら、和歌山市内中心部からのアクセスが非常に良いのも魅力の一つです。
電車でのアクセス
最もおすすめのアクセス方法は、和歌山電鐵貴志川線(きしがわせん)の利用です。
- 最寄り駅: 和歌山電鐵貴志川線「日前宮駅(にちぜんぐうえき)」
- 所要時間: 下車後、徒歩約1分
JR和歌山駅(9番ホーム)から貴志川線に乗り換え、わずか数分。「日前宮駅」で降りれば、目の前に大きな鳥居が見えてきます。猫の駅長「たま」で有名になったこの路線は、のんびりした旅情も楽しめます。
車でのアクセス
広大な無料駐車場が完備されているため、お車での参拝も非常に便利です。
- 最寄りIC: 阪和自動車道「和歌山IC」より
- 所要時間: インターチェンジを降りて約5分(国道24号線を西へ直進)
Googleマップ位置情報
- 所在地: 〒640-8322 和歌山県和歌山市秋月365
- 電話番号: 073-471-3730
- Google Maps: 位置情報をみる

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