日本三景・天橋立を擁する京都府北部、丹後地方。 かつてここには、ヤマト王権に対抗しうる強大な勢力「丹後王国」が存在したと言われています。
この地に伝わる日本最古の「羽衣伝説」をご存知でしょうか? 私たちが絵本で知る「羽衣伝説」は、天女と人間の恋愛物語ですが、丹後のそれは全く異なります。そこにあるのは、高度な技術を持った異邦人への搾取、裏切り、そして流浪という、驚くほどリアルな歴史の暗部です。
今回は、京丹後市弥栄町に鎮座する式内論社「奈具神社(なぐじんじゃ)」を徹底解剖。 最新の考古学が明かす「天女の正体」、そして中世の大洪水で村ごと消滅しながらも400年の時を経て蘇った、この神社の数奇な運命に迫ります。
『丹後国風土記』が語る「もう一つの羽衣伝説」
奈具神社の祭神は、豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)。伊勢神宮外宮の祭神・豊受大神(とようけのおおかみ)と同体とされる、穀物と豊穣の女神です。
この神社の創祀について記しているのが、奈良時代に編纂された『丹後国風土記』逸文です。ここには、三保の松原(静岡)や余呉湖(滋賀)の伝承とは一線を画す、具体的かつ悲劇的な物語が記されています。

老夫婦の罠と「酒」による富
物語の舞台は、丹波郡の比治山(ひじやま)の頂上にある「真奈井(まない)」という泉。8人の天女が水浴びをしていると、「和奈佐」という老夫婦が現れ、1人の羽衣を隠してしまいます。
天に帰れなくなった天女に対し、老夫婦は「子が無いので娘になってほしい」と懇願し、地上に引き留めます。ここまではよくある話ですが、重要なのはここからです。
天女はただ家にいただけではありません。彼女は「万病に効く一杯の酒」を造り出しました。 この酒は飛ぶように売れ、老夫婦は巨万の富を得て豊かになります。しかし十数年が経過し、富を蓄えきった老夫婦は豹変します。
「お前は我々の子ではない。他人のまま長く居座るな」
天女は家を追い出されてしまいます。 彼女は嘆き悲しみ、「荒塩(あらしお)の村」(現・京丹後市峰山町久次付近)、「哭木(なきき)の村」(現・峰山町内記付近)と、その悲しみが地名に残るほどの流浪を続けます。
そして最終的に辿り着いたのが、竹野郡の船木里・奈具村(現在の鎮座地)でした。 天女はそこで、「此処に来て、わが心奈具(なぐ)しくなりぬ(=心が安らかになった)」と言い、その地に留まることとしました。これが「奈具」という社名の由来です。
奈具岡遺跡と「天女の正体」
なぜ、神話の中で天女は「酒」を作って富をもたらしたと語られるのでしょうか? この謎を解く鍵は、神社のすぐ近く、直線距離にして2kmほどの場所にある「奈具岡遺跡(なぐおかいせき)」にあります。

「酒」はハイテク製品のメタファーか
奈具岡遺跡は、弥生時代中期(約2000年前)の大規模な工房遺跡です。 ここからは、水晶や碧玉(へきぎょく)を用いた大量の玉製品(勾玉や管玉)のほか、鉄製品やガラス製品の生産痕跡が見つかっています。当時、こうした素材を加工できるのは、大陸(朝鮮半島や中国)からの最先端技術を持つ集団だけでした。
古代人にとって、透明に輝くガラスや水晶、そして鉄を作り出す技術は、魔法のような「富の源泉」に見えたはずです。
この考古学的事実と神話を重ね合わせると、一つの仮説が浮かび上がります。
- 天女: 大陸の先進技術(製鉄・ガラス・酒造)を携えて渡来した技術者集団のリーダー(巫女的性格を持つ首長)。
- 酒造り: バイオテクノロジーの象徴であり、実際には「ガラス」や「鉄」といった高付加価値製品のメタファー。
- 老夫婦(和奈佐): 技術を利用して富を得た、在地の有力者。
- 追放: 技術移転が完了した後、用済みとなった外来集団(まれびと)の排斥。
奈具神社は、単なる農業神ではなく、古代丹後王国の繁栄を支えた「産業技術の守護神」だった可能性が高いのです。
「二つの奈具神社」と式内社の謎
実は丹後地方には、「奈具神社」と名乗る神社が二社存在します。 一つは今回紹介している京丹後市弥栄町の神社。もう一つは宮津市由良にある神社です。
平安時代の『延喜式神名帳』には「丹後国 竹野郡 奈具神社」との記載があります。 宮津市の神社も由緒ある古社ですが、旧行政区分では「加佐郡」にあたります。一方、弥栄町の神社は旧「竹野郡」に位置しており、さらに神話にある「船木里」の地名とも一致するため、こちらの弥栄町の神社こそが、式内社・奈具神社の正統な後継(論社)であるというのが現在の有力な説です。
消えた村と400年の流浪
神話の中で安住の地を見つけた天女(豊宇賀能売命)ですが、歴史の中で彼女を祀る神社もまた、過酷な「流浪」を経験しています。
嘉吉の大洪水と「亡村」の悲劇
室町時代の嘉吉3年(1443年)、この地を未曾有の大洪水が襲いました。 記録には「奈具村が流失」「亡村(廃村)となった」とあり、村そのものが地図から消滅するという壊滅的な被害を受けました。
生き残った村人たちは、命からがら近隣の「溝谷村」などへ避難。その際、奈具神社の御神体(霊石とされる)もまた、住民と共に避難し、溝谷神社(現・京丹後市弥栄町溝谷)の相殿に合祀、いわば「居候」することになりました。
400年越しの奪還劇
それから江戸時代後期に至るまでの約400年間、奈具神社は独立した社殿を持てない「冬の時代」を過ごします。 しかし、かつての奈具村の末裔たち(船木村の氏子)は、自分たちの神を忘れませんでした。
天保3年(1832年)、彼らは溝谷神社に対し「奈具神社の霊石と、式内社の称号を返してほしい」と要求します。しかし、400年も祀ってきた溝谷神社側にとって、格式ある式内社を手放すことは容易ではありません。 交渉は決裂し、村同士の対立は泥沼の訴訟合戦へと発展。「私欲の争い」と記録されるほどの激しい争いとなりました。
事態が動いたのは明治維新後。 政府の神祇省による裁定で、ついに正式な「返還命令」が下されます。こうして明治6年(1873年)、奈具神社は現在の地に再興されました。 天女が流浪の果てに安住したように、その神社もまた、数百年もの時を経てようやく故地に帰還したのです。
無形文化遺産「船木の踊子」に見る渡来の記憶
苦難の歴史を乗り越え、今も奈具神社の例祭(10月)で奉納されているのが、京都府登録無形民俗文化財「船木の踊子」です。
新羅からの贈り物?
この芸能は、太鼓や鞨鼓(カンコ)、ササラを持った少年たちが、「ホーイホイ」という掛け声とともに独特のリズムで踊るものです。 歌(謡)を伴わない「器楽」であり、地元では「朝鮮半島(新羅)から奈具の神へ調貢(貢ぎ物)を捧げた姿を伝えるもの」と信じられています。ここにも、古代丹後と朝鮮半島の深い結びつきが見え隠れします。
「最も幼い女児」が選ばれる謎
さらに興味深いのが、祭礼の供え物(御供・おひま)を担当する家の選び方です。 なんと、集落の中で「その年、最も幼い女児がいる家」が担当するという、極めて珍しい慣習が残っています。
民俗学的には、これが「神の嫁(巫女)」を選定する古い儀礼の名残ではないかとも指摘されており、古代信仰の形態を現代に伝える貴重なタイムカプセルとなっています。
参拝ガイド
京丹後市弥栄町の小高い丘の上に、ひっそりと鎮座する奈具神社。 境内は静寂に包まれ、清冽な小川の音が響くだけですが、ここまで見てきたように、その背後には「古代王国の産業史」と「村の消滅と再生」という壮大なドラマが秘められています。
伊勢神宮外宮のルーツとも言われるこの場所は、歴史好きなら一度は訪れる価値のある聖地です。古代の職人たちの熱気や、天女の嘆きに想いを馳せながら、参拝してみてはいかがでしょうか。
【奈具神社】

- 鎮座地: 京都府京丹後市弥栄町船木273
- グーグルマップの位置情報
【アクセス】
公共交通機関でのアクセスは難易度が高いため、事前の計画が必須です。
- 鉄道・バス: 京都丹後鉄道宮豊線「峰山駅」下車。丹後海陸交通バス(弥栄網野砂丘線など)に乗り換え、「弥栄分校前」等のバス停から徒歩。
- 車: 京都縦貫自動車道「宮津天橋立IC」から約40分。駐車場あり。
- ※バスの本数が限られるため、峰山駅からのレンタカーまたはタクシー利用を推奨します。




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