群馬県西部に、まるで水墨画から抜け出したかのように屹立する山々があります。日本三大奇景の一つにも数えられる「妙義山」。500万年以上前の火山活動が創り出したその荒々しい奇岩怪石の姿は、訪れる者を圧倒します。
古代の人々はこの岩々に神の霊威を感じ(磐座信仰)、平安の貴族は朝廷にその名を報告し、中世の修験者はこの岩肌を命がけの修行の場としました。近世に入ると、徳川将軍家や諸大名がこぞって壮麗な社殿を寄進し、神と仏が一体となって栄華を極めます 。
そのすべての中核であり、信仰を今に伝える場所こそが、妙義山の中腹に鎮座する「妙義神社」 です。
2024年、妙義神社の境内にある多くの建造物群が、国の重要文化財に追加指定されました 。これは、単に古い建物が評価されたのではありません。神仏分離によって消されたはずの寺院の建物 さえも含め、妙義神社が歩んできた「神仏習合の歴史的景観」そのものが、日本の宝として再評価されました 。
この記事では、妙義神社の1500年にわたる壮大な歴史と神話を掘り下げていきます。
原初の信仰と「波己曾神」 岩が神であった時代
妙義信仰の最古層、その基盤にあるのは「山岳信仰」です。しかし、それは赤城山や榛名山のような、恵みをもたらす「水の神」としての信仰とは少し異なります 。妙義の信仰は、その特異な山容、すなわち「岩」そのものへの畏怖から始まりました。
奇岩怪石の山=御神体
妙義山は、古い火山の中心部が長年の侵食によって削られ、硬い安山岩の岩脈だけが残った結果、あの奇妙な形になりました。古代の人々にとって、天を突くように連なる岩々は、まさに神が宿る場所「磐座(いわくら)」そのものでした。
この、岩そのものを神と崇める原始の信仰こそが、妙義神社の原点です。
古文書に記された「波己曾神(はこそのかみ)」
その証拠に、妙義神社は近世に至るまで「波己曾社(はこそしゃ)」と呼ばれていました 。この「波己曾(はこそ)」という不思議な名前の語源は、「イワコソ(岩こそ)」、すなわち「岩そのもの」を意味する古代の言葉が転訛したものだと考えられています 。神殿という人工物が建てられる以前、人々は岩そのものに向かって手を合わせていたのです。
この「波己曾神」は、辺境の土着神ではありませんでした。平安時代の正史である『日本三代実録』には、貞観元年(859年)二月二十六日条に、朝廷から上野国の「波己曾神」に従五位下の神階が授けられた、という記録が明確に残っています 。これは、平安京の中央政府が、この山の霊威を公式に認め、国家の守護神の一つとして位置づけていたことを示しています。
境内に残る「波己曾社」という記憶

そして、この最も古い信仰の記憶は、現在の妙義神社境内にも物理的に保存されています。
現在の壮麗な本社(本殿・幣殿・拝殿)が宝暦六年(1756年)に建てられるまで、神社の中心だったのが、明暦二年(1656年)建立の「旧本社」でした 。普通なら、新しい本社ができれば古い社殿は取り壊されるか忘れ去られてしまいます。
この古い社殿を「波己曾社」 と呼び、本社の南西下段に移築して、今も大切に祀り続けているのです 。これは、新しい信仰(江戸時代の権現造本社)が古い信仰(古代の磐座信仰)を上書き消去するのではなく、古い信仰の霊威をリスペクトし、境内に包摂したことを示す貴重な証拠です。
2024年、この「附・波己曾社本殿及び拝殿」も、前身社殿として重要であることから国の重要文化財(附指定)となりました 。妙義神社を訪れることは、この日本最古層の「岩への祈り」に触れることでもあるのです。
ヤマトタケルと「妙義」の誕生
古代の「岩の神」であった波己曾神は、やがて日本の「神話」と結びつき、新たな神格を獲得していきます。
創建神話 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
妙義神社の公式な創建伝承(宣化天皇二年・537年とも)は、日本神話の英雄、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)に遡ります。
伝承によれば、日本武尊が東国の蝦夷(えみし)を平定するために東征した際、この妙義の地に陣営を構えたとされます。そして、東征を終えた人々が、その御威徳を慕い、この地に社を建てて尊び祀ったのが始まりである、と。
この神話が持つ意味は重要です。それは、土着の荒々しい「岩の神(波己曾神)」に、皇統に連なる「武の神」「国土開拓の神」という、秩序と権威の神格を重ね合わせるプロセスでした。これにより、妙義の神は、単なる地域の霊山から、国家的な「武運長久」「勝負運」の神としての性格を強く帯びることになります。
ご利益の「ポートフォリオ」 総合神社への道
現在の妙義神社が、なぜ「開運、商売繁昌、火防、学業」 など、多様なご利益を持つ「パワースポット」として知られているのか。その答えは、御祭神の顔ぶれにあります。
- 日本武尊(やまとたけるのみこと):創建神話に基づく主祭神 。勇気と勝運、開運招福 。
- 豊受大神(とようけのおおかみ):伊勢神宮外宮の神様。五穀豊穣、商売繁盛 。
- 菅原道真公(すがわらのみちざねこう):天神様。学業成就、試験合格 。
- 権大納言長親卿(ごんだいなごんながちかきょう):後述する「妙義」の名付け親。誠実、家運安泰 。
この構成は、妙義神社が歴史の中で、武士階級の「勝運」の祈り だけでなく、農民の「豊穣」の願い 、商人の「商売繁盛」の祈り 、そして江戸時代以降の「学問」への希求 まで、あらゆる人々の現世利益に応える「総合神社」として発展してきた証左です。
「妙義」という名の誕生
土着の「波己曾」に対し、私たちが今使っている「妙義」という優美な名称は、どのようにして生まれたのでしょうか。
通説では、鎌倉時代末期から南北朝時代、後醍醐天皇に仕えた公家・権大納言長親卿が、この山の奇勝を「明々巍々(めいめいぎぎ)」(清らかで明らか、かつ、けだかく威厳がある様)と讃えたことに由来するとされます 。この「明巍(みょうぎ)」が転じて「妙義」となったというのです。
「波己曾」が岩への原始的な「畏怖」を表すのに対し、「妙義(明々巍々)」は、和漢の教養を持つ知識人や貴族階級による「文化的・知的な賞賛」を表します。この改称は、妙義山が単なる土着の霊山から、都の文化人にも知られる「風雅な名勝」へと、その社会的地位を変えていったことを象徴しています。
神仏習合と修験道 荒ぶる山を「行」の場へ

中世に入ると、妙義の信仰は新たな段階を迎えます。神道と仏教が融合する「神仏習合」の波が、この山を席巻するのです。
修験道の霊場
妙義山の「奇岩怪石」は、修験者(山伏)たちにとって、俗世を離れて悟りを開くための究極の「修行の場」となりました。古代人がただ「畏れた」岩壁は、中世の修行者にとっては、自らの身体で「克服すべき」対象へと変わりました 。
今も妙義登山の最難関として知られる「鷹戻し」や「かにのよこばい」 といった、ほぼ垂直の岩壁に打ち込まれた鎖場(くさりば)。あれは元々、レジャー登山のためのものではなく、山伏たちが岩肌を登攀(とうはん)し、死と生の狭間で己の精神を研ぎ澄ますという、命がけの「行」の痕跡なのです。
妙義神社の本殿裏に天狗が祀られている ことや、白雲山の中腹に修行の象徴である「大」の字が掲げられている のも、この修験道(山岳仏教)の記憶を色濃く残すものです。
別当寺「石塔寺」の支配
この神仏習合の時代、妙義神社(波己曾社)は単独で存在していたわけではありません。平安時代に開基されたと伝わる天台宗の寺院、「白雲山 石塔寺(せきとうじ)」という別当寺によって、一体的に管理・運営されていました 。神社の祭祀と仏教の法要が、同じ境内で渾然一体として行われていたのです。
特に江戸時代、石塔寺は徳川家の菩提寺である江戸・上野の「東叡山 寛永寺」の末寺となります 。これは、妙義が幕府の公的な宗教ネットワークに組み込まれたことを意味します。
その権勢の象徴が、現在の社務所や駐車場がある下段エリアに建てられた「御殿」 です。これは、寛永寺の座主(住職)であり、皇族が務めた最高権威「輪王寺宮(りんのうじのみや)」が妙義を訪れた際の宿所として、安政三年(1856年)頃に建てられた格式高い建物でした 。
明治の神仏分離と「消された歴史」
この「神と仏の蜜月」は、明治維新によって突如終わりを告げます。明治政府が出した「神仏分離令」により、石塔寺は「廃寺」とされ、妙義は「神社」として再出発することになりました 。
制度上、仏教は排除されました。しかし、現地では興味深い「継承」が行われます。廃寺となった石塔寺の「本堂」あるいは「庫裏(くり)」が、そのまま新生・妙義神社の「社務所」として転用されたのです 。
神仏分離で「廃絶された」はずの仏教施設、すなわち「御殿」と「社務所(旧庫裏)」が、「近世に神仏習合の場として栄えた境内の景観をよく伝え、価値が高い」 として、国の重要文化財に追加指定されたのです 。
これは、明治政府によって一度は「断絶」させられた歴史が、150年以上の時を経て、日本の文化的な「連続性」として公式に認められた瞬間でした。
権力者の庇護と壮麗なる社殿

宝暦の造営(1756年)「上州の日光」
この江戸時代の庇護の頂点として結実したのが、宝暦六年(1756年)に完成した現在の本社(本殿・幣殿・拝殿)、唐門、総門です 。これらは1981年(昭和56年)に国の重要文化財に指定されています 。
この社殿群の最大の特徴は、徳川家康を祀る「日光東照宮」と同じ「権現造(ごんげんづくり)」を採用している点です。黒漆塗を基調とし、屋根は銅茸(どうぶき)入母屋造。拝殿正面には千鳥破風を置き、さらにその前に唐破風の向拝(こうはい)を張り出すという、複雑かつ壮麗な建築です 。
そして圧巻なのが、建物全体を埋め尽くす極彩色の彫刻群です。これらは「日光東照宮の彫刻師が来て彫り上げた」と伝えられており 、その技術と芸術性は「上州の日光」と呼ぶにふさわしいものです。
- 唐門:「松に鳳凰」「松に雉」の鮮やかな透かし彫り、「菊花葉」の立体的な籠彫り 。
- 拝殿:向拝との繋ぎ目にある「海老虹梁(えびこうりょう)」には、「上り龍・下り龍」が躍動し、脇障子には「竹林の七賢人」が精緻に彫られています 。
寛永寺の末寺であった妙義(石塔寺)が、幕府の威光の象徴である「権現造」と「日光の彫刻師」の技術を導入したこと。それは、妙義の神格を徳川の権威と結びつけ、その威光を上野国に示すという、強烈な政治的・文化的メッセージでした。
2024年指定文化財が語る「江戸時代の境内」
1981年の指定が、この「芸術的頂点」である本社群に焦点を当てたのに対し、2024年の追加指定 は、江戸時代の境内がいかに多様な建物で構成されていたかを明らかにしました。
- 随神門・廻廊(明暦二年・1656年頃):境内最古級の建物。壮麗な本社以前の、装飾が簡素で古風な様式 。
- 銅鳥居(享保四年・1719年):鋳物師や寄進者の名が刻まれた、柱元に獅子の飾りがつく銅製の鳥居 。
- 御殿・社務所(安政三年~五年・1856~58年):前述した、幕末期の別当寺・石塔寺の最後の隆盛を示す建物 。
妙義神社 訪問ガイド

基本情報
- 名称: 妙義神社(みょうぎじんじゃ)
- 所在地: 〒379-0201 群馬県富岡市妙義町妙義6
車でのアクセス
- 高速道路: 関越・上信越自動車道 「松井田・妙義IC」 から約5分 。
- 駐車場: 神社に隣接する 「道の駅みょうぎ(みょうぎ物産センター)」の無料駐車場 の利用が便利です。駐車場から神社の鳥居はすぐです 。
公共交通機関(電車・バス)
- JR高崎駅から: JR信越線に乗り換え 「松井田駅」 で下車 。
- 松井田駅から: タクシーで約10分 。
- (JR信越線「磯部駅」からはタクシーで約15分です )
もっと深く知りたい方へ参考文献
この記事で触れた妙義神社の歴史と信仰は、非常に奥深く、多くの専門家によって研究されています。さらに深く学びたい方のために、関連する書籍をいくつかご紹介します。(※在庫状況は各販売サイトでご確認ください)
- 『妙義山 歴史と信仰の山』(あさを社) 妙義山の信仰史に関する基本的な文献です。 Amazonで探す
- 『山伏の地方史―群馬の修験道―』(みやま文庫) 久保康顕氏らによる、妙義山を含む群馬県内の修験道の歴史に焦点を当てた専門書です。
- 『名山の文化史』(高橋千劔破 著, 河出書房新社など) 歴史・文芸評論家である著者が、妙義山を含む日本の名山から「なぜ寺院が消えたのか」という神仏分離の視点も含めて文化史を綴った一冊です。 Amazonで探す
- 各種修理工事報告書 『重要文化財妙義神社本殿…修理工事報告書』 や『妙義神社波己曾社社殿保存修理報告書』 など、文化財修理の際に発行される極めて詳細な資料です。専門的な調査や研究向けで、主に「日本の古本屋」などで流通することがあります。 日本の古本屋で探す

コメント