日本の古代史において、最も謎に満ちた女性の一人、倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)。 奈良県桜井市にある巨大前方後円墳「箸墓古墳」の被葬者とされ、邪馬台国の女王・卑弥呼の最有力候補とも目される彼女ですが、その生涯の多くは謎に包まれています。
『日本書紀』では、大物主神との悲劇的な神婚譚や、予言を行う巫女としての姿が描かれていますが、実はここ香川県(讃岐国)には、中央の歴史書には記されていない「もう一つの百襲姫の物語」が鮮明に残されていることをご存知でしょうか。
それは、巫女としての姿ではなく、自ら鍬を取り、水路を拓き、讃岐平野に稲作をもたらした「偉大なる開拓の祖神」としての姿です。
今回は、香川県東かがわ市に鎮座する古社「水主神社」を徹底調査。 なぜ彼女は大和を離れ、この讃岐の地へやってきたのか? そして、彼女がこの地に遺した「水」と「技術」の正体とは?
古代讃岐の開発史を塗り替えるかもしれない、壮大な歴史ミステリーの旅へご案内します。
水主神社とは? 讃岐最古級の格式を誇る「水の聖地」
香川県東かがわ市、虎丸山をはじめとする「水主三山」の麓。のどかな田園風景を見下ろす扇状地の要に、水主神社は鎮座しています。

延喜式内社の誇りと歴史
その創建は古く、社伝によれば宝亀年間(770-781年)とも、それ以前の弥生時代にまで遡るとも言われています。平安時代の歴史書『続日本紀』には、承和3年(836年)に神階を授かった記録が残っており、延喜式神名帳にも記載された由緒ある「式内社」です。
「水主(みずし)」という名の意味
社名にある「水主」とは、文字通り「水の主(ぬし)」、あるいは水を司る者を意味します。 雨が少なく、古来より水不足に悩まされてきた香川県において、水源を確保することは生死に関わる最重要課題でした。この神社が、山間部からの水が集まる与田川の中流域、まさに水利のコントロールポイントに位置していることは偶然ではありません。
ここで祀られているのは、単なる伝説上の人物ではなく、この地域の命である「水」を支配し、守り続けてきた実在のリーダーの姿なのです。
百襲姫の「讃岐亡命」と開拓の旅
水主神社に伝わる由緒は、記紀神話(古事記・日本書紀)の空白を埋めるかのような、極めて具体的な物語を持っています。
7歳の決断と「うつぼ舟」
伝説によれば、百襲姫が父・孝霊天皇の元を離れたのは、わずか7歳の時でした。 理由は「倭国(大和)の争乱を避けるため」。これは、歴史の教科書にも出てくる「卑弥呼の死後の争乱」や、大和王権成立期の権力闘争を指している可能性があります。
幼い姫は「うつぼ舟(空穂船)」と呼ばれる舟に乗り、海路はるばる讃岐を目指しました。「うつぼ舟」とは、空洞の木で作られた舟、あるいは異界から神が訪れる際の乗り物を指す民俗学的なキーワードですが、ここでは具体的な「避難船」として描かれています。
安戸の浦への上陸
8歳になった姫が漂着したのは、現在の東かがわ市引田にある「安戸の浦」でした。「安戸」とは、長い航海の末にようやくたどり着き「安堵」したことに由来するとも言われます。 その後、姫は「袖掛神社」で濡れた着物を乾かし、清らかな水を求めて内陸へと進み、最終的に現在の水主の地に居を定めました。これが、水主神社の始まりです。
巫女か、技術者か? 讃岐に残る「理系女子」としての百襲姫
大和での百襲姫が「祭祀・呪術」の専門家として描かれるのに対し、水主神社の伝承に登場する彼女は、驚くほど実務的で、現代風に言えば「土木技術者」や「農業指導者」のような活躍を見せます。

稲作の伝播と「水」の発見
姫はこの地で成人するまでの間、地元の人々に稲作を教えたと伝えられています。 実際に、水主神社周辺の遺跡からは、弥生時代の水田跡や、高度な木工技術を示す遺物が多数出土しています。これは、姫(もしくは彼女に従う技術集団)が、畿内の先進的な農業をこの地に持ち込んだという史実を反映しているのかもしれません。
また、「日照りに苦しむ人々のために水脈を教えた」という伝承は、彼女が単に雨乞いをしただけでなく、地下水脈を見抜く知識や、井戸を掘る技術を持っていたことを示唆しています。
大鯰(ナマズ)退治と治水工事
特に興味深いのが、「保田池(やすだいけ)」にまつわる伝説です。 ある日、姫が大鯰に足を噛まれたことに激怒し、水を蹴り上げると堤防が切れ、そこが陸地になったといいます。
これは一見、荒唐無稽な神話に見えますが、歴史学的な解釈をすれば「大規模な排水工事(治水)」の暗喩です。
- 大鯰 = 制御不能な河川の氾濫や、湿地帯の主
- 堤を切って陸地にする = 湿地の水を抜いて、耕作可能な乾田に変える土木工事
姫は、怪物退治という英雄譚の形を借りて、氾濫原を豊かな農地へと変えた「治水の功績」を語り継がれているのです。
讃岐を横断する「百襲姫レイライン」の謎
水主神社での事業を成功させた後、百襲姫の伝説はここから西へと移動します。 地図上で彼女の足跡(関連神社)を結ぶと、讃岐平野を東から西へ横断する一本の線、いわゆる「レイライン」が浮かび上がります。
- 水主神社(東かがわ市):拠点の確立、稲作の開始。
- 艪掛神社(東かがわ市):船を停め、移動の準備をした地。
- 船山神社(高松市仏生山):「船岡池」を掘削し、その残土で「船岡山」を築いた地。
- 田村神社(高松市一宮):旅の終着点。讃岐一宮として、今も水の神として祀られる。
このルートは、古代讃岐における「開発の最前線」がどのように移動していったかを如実に物語っています。東部の山間部で実験的に成功した水利・稲作技術が、より広大な平野を持つ高松方面へと展開されていった歴史。 百襲姫の旅は、そのまま「讃岐うどんの国」の礎となった農業基盤の整備史そのものと言えるでしょう。
百襲姫の墓はどこにある? 「箸墓」vs「水主」
歴史ファンにとって最大の関心事は、やはり「お墓」の問題でしょう。 宮内庁は奈良県の箸墓古墳を百襲姫の墓としていますが、水主神社の裏山には、地元で「姫の御陵(わかばさん)」と呼ばれ、大切に守られてきた古い塚が存在します。

二つの墓の謎を解く鍵
なぜ、墓が二つあるのか? これにはいくつかの説があります。
- 分骨・遺髪塚説:本体は大和にあっても、長年暮らして愛着のある讃岐の地に魂を祀ったとする説。
- 母神の墓説:これが非常に有力な説です。水主神社には、百襲姫と共に讃岐へ渡った母・倭国香姫命(やまとのくにかひめのみこと)も祀られています。姫は大和へ帰還しましたが、母はこの地で亡くなり、この「わかばさん」に葬られたのではないか、というものです。
もしそうだとすれば、水主神社は、娘を案じて共に海を渡り、異郷の地で土となった母の愛が眠る場所でもあるのです。
境内の見どころと文化財
歴史の重みを感じながら、境内を歩いてみましょう。
重要文化財の木造神像群

水主神社が地方の一神社ではない証拠が、国指定重要文化財の「木造神像群」です。平安時代の作とされるこれらの像には、百襲姫だけでなく、父・孝霊天皇や母・倭国香姫の姿も刻まれています。家族揃って神像が残されているのは極めて珍しく、古代におけるこの神社の地位の高さを物語っています(現在は収蔵庫や博物館に保管されていますが、写真等でその優美な姿を確認できることがあります)。
弘法大師ゆかりの「閼伽(あか)の井戸」
境内には、あの弘法大師空海が掘ったと伝わる井戸があります。 空海もまた、讃岐出身であり、満濃池の修築などを行った「土木の達人」でした。古代の開拓神である百襲姫と、中世の技術者である空海。時代を超えた二人の「水と土木の英雄」が、この井戸を通じてリンクしているのを感じずにはいられません。
アクセス・基本情報
- 名称:水主神社(みずしじんじゃ)
- 住所:〒769-2515 香川県東かがわ市水主1418
- グーグルマップの位置情報
- 主祭神:倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)
- 拝観料:無料(境内自由)
交通アクセス
- お車の方:
- 高松自動車道「白鳥大内IC」より車で約10分。
- 境内前に駐車場あり。
- 公共交通機関の方:
- JR高徳線「三本松駅」よりタクシーで約10〜15分。
- ※バスの本数が少ないため、タクシーまたはレンタカーの利用を強く推奨します。







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