京都府宮津市、天橋立。 多くの観光客が白砂青松の絶景に目を奪われるこの地の北端に、一般の観光気分で足を踏み入れてはならないような、厳粛な空気を纏った聖域が存在します。
丹後一宮・元伊勢籠神社の奥宮、「眞名井神社（まないじんじゃ）」。
ここは、伊勢神宮外宮の主祭神「豊受大神（トヨウケノオオカミ）」がかつて鎮座していた「神の故郷」であり、2500年以上もの間、人の手が入ることなく祀られてきた「磐座（いわくら）」が鎮座する、原初の信仰の場です。
なぜ、天照大神は伊勢へ行く前にこの地に留まったのか？ なぜ、この場所は「元伊勢」と呼ばれるのか？ そして、豊受大神の正体とは？
今回は、歴史の深層に迫る旅として、眞名井神社の由緒、謎多き祭神の正体、そして参拝時に絶対に守るべき厳格な禁忌について、徹底的に解説します。
眞名井神社と「元伊勢」伝承の謎
眞名井神社を語る上で避けて通れないのが、「元伊勢（もといせ）」という称号です。全国にいくつか存在する元伊勢の中でも、ここは「吉佐宮（よさのみや）」として、別格の扱いを受けています。
天照大神の巡幸と「吉佐宮」
「元伊勢」とは、現在の伊勢神宮に神様が鎮座する以前に、一時的に祀られていた場所のことです。 『日本書紀』や社伝によれば、第10代崇神天皇の御代、疫病や災害を憂いた天皇は、宮中に祀っていた天照大神を皇女・豊鍬入姫命（とよすきいりひめのみこと）に託し、理想的な鎮座地を求めて旅に出させました。
その旅路の中で、天照大神が4年間という長期にわたり鎮座されたのが、丹波国（現在の丹後）の「吉佐宮（よさのみや）」であり、これが現在の籠神社・眞名井神社の地であると比定されています。
豊受大神の「引き抜き」と伊勢外宮の創祀
天照大神はその後、各地を経て現在の伊勢（内宮）に鎮座されますが、物語はここで終わりません。 第21代雄略天皇の夢枕に天照大神が立ち、衝撃的な神託を下します。
「自分一人では食事が安らかにできない。丹波国の比沼真名井（ひぬまのまない）にいる御饌（みけ）の神、豊受大神を呼び寄せなさい」
天照大神は、かつて吉佐宮で共に過ごした豊受大神を懐かしみ、伊勢へ呼び寄せたのです。こうして豊受大神は丹後から伊勢へと渡り、外宮（豊受大神宮）に祀られることとなりました。
この、丹波国の比沼真名井（ひぬまのまない）に比定される地が眞名井神社なのです。つまり、眞名井神社は「豊受大神の故郷」であり、伊勢神宮外宮のルーツそのものなのです。
籠神社と眞名井神社 本当の「本宮」はどちらか
現在、籠神社が「本宮」、眞名井神社が「奥宮」という位置づけですが、歴史的な順序を見れば、その関係性はより複雑で興味深いものになります。
国宝「海部氏系図」が語る真実
この地を代々守り続けてきたのは、籠神社の宮司家である「海部（あまべ）氏」です。彼らの系図『海部氏系図』は国宝に指定されており、現存する日本最古の系図の一つとして知られています。
海部氏は、天照大神の孫神にあたる「彦火明命（ヒコホアカリノミコト）」を始祖とする天孫系氏族です。彼らが最初にこの地を開拓し、豊受大神を祀った祭祀の中心地こそが、現在の眞名井原（眞名井神社）でした。 後に養老3年（719年）、現在の籠神社の位置に社殿が造営されましたが、それまでは眞名井神社こそが祭祀の「本源」だったのです。
籠神社が、国弊として整えられた「里宮（行政的な祭祀の場）」であるのに対し、眞名井神社は太古からの霊力をそのまま保存した「奥宮（神霊の住まう場）」であると言えるでしょう。
祭神「豊受大神」の深層 天御中主神との同体説
眞名井神社の主祭神、豊受大神。一般的には「五穀豊穣」「衣食住の神」として知られていますが、この丹後の地では、より根源的で宇宙規模の神格として捉えられています。
隠された最高神
現地の由緒書きや石碑には、驚くべき記述が見られます。 「豊受大神は、天御中主神（アメノミナカヌシノカミ）と同体である」
天御中主神とは、『古事記』において天地開闢（世界の始まり）の際に最初に現れた神であり、宇宙の根源、中心を司る至高神です。 つまり、豊受大神は単なる「食事係の神」ではなく、以下のような多面的な神格を持つと解釈されています。
- 五穀の神: 地上の生命を養う
- 月の神・水の神: 天照大神（太陽）と対になる存在
- 宇宙の根源神: 天御中主神として万物を統べる
太陽（天照）と月（豊受）、火と水、陰と陽。 伊勢神宮でこの二柱がセットで祀られているのは偶然ではなく、この眞名井の地で形成された「陰陽の完全なる調和」が再現されているのかもしれません。
『丹後国風土記』が明かす正体 悲劇の天女伝説
豊受大神の素顔を知る手がかりは、この地に伝わる古い地誌『丹後国風土記（逸文）』に残された、ある伝説の中にあります。それは、日本最古の羽衣伝説（天女伝説）です。
記述によれば、昔、丹後国の「比治（ひじ）の山」の頂にある「真名井（まない）」という池に、8人の天女が舞い降りました。 彼女たちが水浴びをしていると、和奈佐（わなさ）という老夫婦が1人の天女の羽衣を隠してしまいます。天に帰れなくなったその天女こそが、豊受大神であったと記されています。
万能の神としての豊受大神
地上に残された天女（豊受大神）は、手先が器用で、万病に効くお酒（薬）を造る術を知っていました。彼女のおかげで老夫婦は大金持ちになりますが、十数年後、用済みとされた天女は家を追い出されてしまいます。 天女は「天の原 ふりさけ見れば 霞立ち 家路まどいて 行方しらずも」と嘆き悲しみながら各地を彷徨い、最終的に安住の地を見つけたとされます（※風土記ではその後「奈具の社」に鎮まったとされますが、広い意味での丹後の豊受信仰の原点です）。
この伝承は、豊受大神が単なる「食事の神」ではないことを示しています。 彼女は、酒造り、医療、そして水を司る、万能の能力を持った「天からの来訪者」なのです。眞名井神社の「水」が病気平癒に効くとされる信仰も、この天女（豊受大神）が造った万病の薬酒の伝説と無関係ではないでしょう。
境内の見どころ 2500年の時を超える「磐座」と「水」
眞名井神社の境内は、社殿建築よりも「自然そのもの」への畏怖が中心に据えられています。
全国的に珍しい「狛龍」
鳥居の両脇を守るのは、狛犬ではなく「狛龍（こまりゅう）」です。
- 阿形（右）： 大きく口を開く
- 吽形（左）： 口を閉じ、手に宝珠を持つ
この宝珠は、海神が持つとされる「潮満珠（しおみつたま）・潮干珠（しおふるたま）」を象徴していると言われます。海部氏の海神信仰と、豊受大神の水神としての側面を現す、ここだけの特別な守護獣です。
命の源「天の眞名井の水」
参道を進むと、龍の口から滾々と湧き出る御神水があります。 神代の昔、天村雲命（アメノムラクモノミコト）が高天原から黄金の鉢に入れて持ち降りたと伝わる「天の眞名井の水」。 「マナ」とは「神聖な」「霊妙な」という意味を持ちます。現在も枯れることなく湧き出るこの水は、縁結びや病気平癒のご利益があるとされ、全国から崇敬者が水をいただきに訪れます。
禁足の聖域「磐座（いわくら）」
そして、拝殿のさらに奥。そこには社殿はありません。 あるのは、神が降臨する依代（よりしろ）としての、苔むした巨大な岩石群「磐座（いわくら）」です。
- 磐座主座： 豊受大神（天御中主神）
- 磐座西座： 天照大神、伊射奈岐大神、伊射奈美大神
境内からは縄文時代の石斧や弥生時代の祭祀土器が出土しています。これは、約2500年前から、人々がこの岩の前で祈りを捧げてきたことの証明です。 人間が神のために建物を建てるようになるずっと前から、そこにある自然そのものが神として崇められてきた。その圧倒的な「気配」は、現代人の心をも震わせる力を持っています。
【重要】参拝のルールと撮影禁止のタブー
近年、パワースポットとして紹介されることが増えましたが、眞名井神社は観光地ではありません。神職や崇敬会によって厳格に守られている聖域です。参拝の際は以下のルールを必ず守ってください。
磐座・拝殿エリアは「撮影禁止」
最も注意すべき点です。鳥居や手水舎（水汲み場）付近までは撮影可能な場合がありますが、石段の途中から上、拝殿およびその奥の磐座は撮影厳禁です。 「神域を汚す」「不敬にあたる」として厳しく禁じられています。カメラやスマートフォンは鞄にしまい、心のシャッターを切るだけに留めてください。
お水取りのマナー
「天の眞名井の水」は持ち帰ることができますが、ここでも節度が求められます。
- 容器洗浄禁止: その場でペットボトルなどを洗う行為は厳禁です。
- 量: 常識的な範囲（2〜3リットル程度）に留めましょう。大量のポリタンクでの持ち帰りはマナー違反です。
- 駐車場: 水汲みのためだけに駐車場を長時間占有しないようにしましょう。
服装と態度
磐座前は祈りの場です。大声での会話は慎み、露出の多い服装やサンダル履きは避け、神前にふさわしい態度で参拝しましょう。
アクセスと参拝モデルルート
眞名井神社は、籠神社（本宮）から少し離れた山麓に位置しています。
基本ルート（徒歩）
多くの参拝者は、まず籠神社を参拝し、そこから徒歩で眞名井神社へ向かいます。
- 距離・時間: 籠神社から約800m、徒歩15分程度。
- 道のり: 籠神社の裏鳥居を抜け、民家やお土産屋さんのある通りを進み、最後は山へ向かう緩やかな坂を登ります。
駐車場について
- 籠神社駐車場: 台数は多いですが、30分を超えると有料になります。両社をゆっくり参拝すると時間を超える可能性が高いです。
- 眞名井神社駐車場: 鳥居の近くに数台〜10台ほどのスペースがありますが、道が狭く、満車の場合は転回が難しいこともあります。運転に自信がない場合は、籠神社側（または近隣の市営駐車場）に停めて歩くのが無難です。
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