【古四王神社】北を睨む「越の王」の正体とは? 古四王神社に刻まれた大彦命と坂上田村麻呂、蝦夷たちの記憶

秋田県
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秋田県秋田市寺内。かつて出羽国秋田郡と呼ばれたこの地は、古代日本において極めて重要な意味を持つ場所でした。 そこは、律令国家「日本」の北の境界線であり、ヤマトの王権と、北方の民「蝦夷(えみし)」とが対峙し、そして交じり合った文明の最前線だったのです。

その最前線に、鎮座する神社があります。「古四王神社(こしおうじんじゃ)」。

多くの神社が南(太陽の方向、あるいは都の方向)を向いて建てられる中にあって、この社の社殿は北を向いています。それはあたかも、北方に広がる未知の領域を睨みつけているかのようです。

「コシオウ」とは何か。 今回は、秋田市寺内に鎮座する古四王神社を舞台に、古代王権の覇者・大彦命と、征夷大将軍・坂上田村麻呂、そして歴史の闇に埋もれた「鬼」たちの物語を紐解く、旅へとご案内します。


齶田浦神  「上書き」された土着の神

、現在主祭神として祀られている大彦命以前の、さらに古い記憶です。

古代秋田湾と海洋民の祈り

神社の鎮座地である「寺内」は、古代においては現在よりも内陸深くまで海が入り込んでいた「古秋田湾」の沿岸部にあたります。日本書紀に「齶田(あぎた)」と記されたこの地には、ヤマトの支配が及ぶはるか昔から、独自の文化圏を持つ人々が暮らしていました。

社伝によれば、この地にはもともと「齶田浦神(あぎたのうらのかみ)」と呼ばれる神が祀られていたといいます。 「浦の神」という名が示す通り、日本海を往来する海洋民や、沿岸で生活する在地の人々(蝦夷と呼ばれた人々)が信仰していた、自然崇拝的な地主神であったと考えられます。

巨石への畏怖

伝説によれば、崇神天皇の御代、北陸道に派遣された四道将軍の一人・大彦命がこの地を訪れ、ある「大石」に腰を下ろして休憩したとされています。 村人たちは、将軍の威徳、彼が腰掛けた石そのものに霊性を感じ、これを祀ったのが神社の始まりであると伝えられています。


阿倍比羅夫の北征   政治的錬金術としての「古四王」

単なる伝説上の存在であった大彦命が、この地の「主神」へと昇華される瞬間が訪れます。それは、斉明天皇4年(658年)、阿倍比羅夫(あべのひらふ)によってもたらされました。

日本海を北上した大艦隊

658年、阿倍比羅夫は180隻とも言われる大水軍を率いて日本海を北上しました。この遠征は、当時のヤマト政権にとって、北方の蝦夷を服属させ、領土と資源(特に金や鉄、そして毛皮など)を確保するための国家的一大事業でした。

秋田、能代、そして津軽へと至るこの遠征において、比羅夫は巧みな戦術を見せます。彼は武力による殲滅だけでなく、現地の有力者を懐柔し、統治機構に組み込むという高度な政治工作を行いました。秋田地方の蝦夷の首領である「恩荷(おが)」を饗応し、郡領に任命したエピソードはあまりに有名です。

「越の王」を祀る意味

この遠征の最中、比羅夫は齶田浦神の社に、自らの祖先である「大彦命」を合祀し、社名を「古四王(越王)神社」と改めたと伝えられています。

なぜ「越王」なのか。 大彦命は、北陸地方(高志国/越国)を平定したとされる伝説の将軍であり、阿倍氏の始祖と仰がれる人物です。「越を経由して北へ進む」というルートにおいて、大彦命は守護神として最適の存在だったのです。

征服した土地の神(齶田浦神)を排除するのではなく、自分の祖先神(大彦命)と「同居」させ、さらに社名を変える。これは、「精神的な征服」の儀式に他なりません。 在地の神を祀り続けることで現地住民の反発を抑えつつ、その上位概念として「ヤマトの将軍神」を据える。これにより、蝦夷の人々に対し「あなたたちが崇める神も、実は我々の祖先神の支配下にあるのだ」という無言のメッセージを発したのです。


秋田城と四天王寺   神仏習合と武門の守護

時代が下り、奈良時代になると、大和朝廷の東北経営はより本格化します。天平5年(733年)出羽柵(いではのき)が現在の秋田市高清水岡に移転され、後に「秋田城(あきたじょう)」となります。 古四王神社は、この秋田城に隣接する守護神として、その地位を不動のものとしました。

毘沙門天との習合

神仏習合の流れの中で、古四王神社は仏教の守護神「四天王」と結びつきます。特に、四天王の中で北方を守護する「多聞天(毘沙門天)」が、古四王神(大彦命)の本地仏として見なされるようになりました。

「北を向く神社」という特異性は、ここで仏教的な裏付けを得ることになります。北の守り神である毘沙門天の力を借りて、北方の異界(まつろわぬ民の地)を鎮圧する。境内には「四天王寺」も建立され、古四王神社は「古四王大権現」として、武士たちから熱狂的な崇拝を集めるようになりました。


坂上田村麻呂と「鬼」の伝説   英雄の影に潜むもの

平安時代初期に、もう一人の英雄がこの地を訪れます。征夷大将軍・坂上田村麻呂です。 古四王神社の境内には、彼の足跡を示す強烈な伝承が残されています。

命がけの戦勝祈願とタブー

延暦20年(801年)頃、田村麻呂は蝦夷征討に際し、古四王神社で戦勝を祈願しました。 伝承によれば、彼はこの時、神に対して壮絶な誓いを立てたとされます。「二足・四足の鳥獣を断食すること」、そして「毎年元旦から七日まで酒肴を禁断して精進潔斎すること」。

驚くべきことに、この田村麻呂の誓いは、単なる昔話として終わっていません。 神社の鎮座する寺内地区の住民たちの間では、昭和の戦後しばらくに至るまで、正月の期間中は「酒や肉を口にしない」という禁忌として守られ続けてきたのです。 1000年以上前の将軍の誓いが、近代まで地域コミュニティで守り継がれていました。これは、当時の戦いがいかに過酷であり、田村麻呂という存在がどれほど強烈な「畏怖」として地域に刻印されたかを物語っています。

討たれた「鬼」の正体

田村麻呂が戦った相手として、伝説には「大嶽丸(おおたけまる)」という名の「」が登場します。 神通力を使い、暴れまわったとされるこの鬼は、田村麻呂によって討ち取られ、その首領を失った残党は男鹿の山へと逃げ込んだとされます。

興味深いのは、その残党の中に「アケト丸」「アケル丸」「アケシ丸」という三兄弟がいたという伝承です。 「アケ」という音は、アイヌ語や古代の蝦夷の言葉に由来する響きを持っています。これらは、架空の怪物としての鬼ではなく、大和朝廷の侵攻に命がけで抵抗した、実在の蝦夷のリーダーたちだったのではないでしょうか。

勝者の歴史において、抵抗者はしばしば「鬼」や「土蜘蛛」として描かれます。古四王神社の摂社である「田村神社」には、田村麻呂が大嶽丸を射止めたとされる「白羽の矢」が祀られたと伝わりますが、その矢が貫いたのは、故郷を守ろうとした英雄だったのかもしれません。


高清水の霊泉と北のコスモロジー

古四王神社の境内には、「高清水(たかしみず)」の地名の由来となった霊泉が湧き出ています。

亀と玄武

阿倍比羅夫が古四王神を祀った際、この泉には亀が出現したといわれています。 亀は、中国の五行思想において北方を守護する聖獣「玄武(げんぶ)」の象徴です。また、亀は水神の使いでもあります。

大彦命(北陸からの来訪者)、毘沙門天(北方の守護神)、そして玄武(北の聖獣)。 古四王神社には、これでもかと言うほどに「北」を守り、鎮めるためのシンボルが集められています。

かつてこの泉にはサンショウウオが生息していたとも言われ、眼病平癒の霊水としても信仰されました。この水は在地の農民たちの命を繋ぎ、癒やしを与えてきました。 国家鎮護の激しい歴史の足元で、静かに湧き続ける清冽な水。それこそが、齶田浦神の時代から変わらない、この土地本来の姿なのかもしれません。


歴史の坩堝としての古四王神社

秋田市寺内の古四王神社。そこは、単なる古い神社ではありません。

  • 齶田浦神:忘れられた土着の神
  • 大彦命:越を越えてきたヤマトの祖神
  • 阿倍比羅夫:支配を確立した政治家
  • 坂上田村麻呂:鬼を討った英雄
  • 大嶽丸:鬼とされた抵抗者たち

これらの異なる時代の、異なる立場の存在たちが、ひとつの境内に複雑に絡み合い、溶け合っている場所。それが古四王神社です。 北を向く社殿の前に立つとき、私たちは、1300年以上前にこの場所で繰り広げられた、征服と抵抗、そして融和への苦闘のドラマを肌で感じることができます。


【古四王神社(秋田市寺内)】

  • 鎮座地:秋田県秋田市寺内児桜一丁目5-55
  • グーグルマップの位置情報
  • アクセス
    • JR秋田駅より秋田中央交通バス(将軍野線または寺内経由土崎線)乗車、約22分。「寺内地域センター前」下車、徒歩すぐ。
    • 秋田城跡歴史資料館から徒歩圏内。合わせての探訪がおすすめです。
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