石川県・能登半島。この半島の中能登地域に、静寂に包まれた巨大な森があります。 地元の人々から古くより「親王塚(しんのうづか)」と呼ばれ、畏敬の念を集めてきたこの場所こそ、北陸地方最大級の威容を誇る「小田中親王塚古墳(こだなかしんのうづかこふん)」です。
宮内庁により第10代崇神天皇の皇子、大入杵命(おおいりきのみこと)の墓として厳重に管理されているこの地は、単なる貴人の墓所ではありません。ここは、4世紀という日本国家形成の黎明期に、ヤマト王権がいかにして日本海側へ勢力を伸ばしたか、その「最前線」のドラマが刻まれた場所なのです。
今回は、考古学的な発見と文献史学の深層、そして現地に残る地理的痕跡から、この巨大古墳に秘められた謎を紐解いていきます。
消えた巨大潟湖「邑知潟」と水運の王
なぜ、現在の静かな田園風景の中に、突如として巨大な権力の証(古墳)が現れるのでしょうか? その答えを知る鍵は、現代の地図にはない「古代の地形」にあります。
半島を分断する「水の道」
小田中親王塚古墳が築かれた石川県中能登町小田中地区は、能登半島を南西から北東へ分断する「邑知地溝帯(おうちちこうたい)」の北西縁、標高約40メートルの段丘上に位置しています。 現在、眼下には広大な水田が広がっていますが、古墳時代、ここは「邑知潟(おうちがた)」と呼ばれる巨大な潟湖でした。
能登半島の外側(外浦)は冬場の荒波が厳しく、当時の技術では航行が命がけでした。しかし、この邑知潟を利用すれば、荒れる日本海を避け、穏やかな富山湾側(内浦)へと船を進めることができる「地峡横断ルート」が確保できたのです。
「道の権力」の正体
この古墳は、かつての邑知潟を一望する絶好のポイントに築かれています。 被葬者は、この水上を行き交う船を監視し、北陸産のヒスイや海産物、そして大陸からの文物を管理・課税することで、強大な富と政治力を蓄積した「水運の王」であったと考えられます。この場所は、単に景観が良いから選ばれたのではなく、物流と軍事の要衝を物理的に「制圧」するための戦略拠点だったのです。
墳丘の謎 円墳か? それとも帆立貝式か?
小田中親王塚古墳は、その形状についても興味深い論争があります。
宮内庁の治定と考古学の視点
現在、宮内庁はこの古墳を「円墳」として治定しています。しかし、近年の精密な測量調査や研究者の分析により、実際は円形の主丘部に短い突出部が付設された「帆立貝式古墳(ほたてがいしきこふん)」である可能性が濃厚となっています。
- 主丘部直径: 約67メートル
- 推定全長: 約72メートル(突出部含む)
- 高さ: 約15メートル
この規模は、円墳・帆立貝式古墳としては北陸地方で最大級、全国的に見ても屈指の規模です。 「帆立貝式」とは、前方後円墳の「前方部」を極端に短縮した形です。これは、ヤマト王権の身分秩序において、最高ランクの「前方後円墳」の築造には至らないものの、それに準じる極めて高い地位にあった首長、あるいは王権中枢と深いつながりを持ちつつも独自の地域性を保持した首長の墓制とされています。
築造当時は、斜面に白く輝く葺石(ふきいし)が敷き詰められていました。水路を行く船人たちは、水辺から見上げる丘の上に白亜の巨大な建造物が輝く姿を見て、そこに眠る王の威光にひれ伏したことでしょう。
大入杵命(おおいりきのみこと)の正体
宮内庁が被葬者とする「大入杵命」。現代ではあまり馴染みのない名前ですが、彼の出自を深掘りすると、なぜこの地にこれほど巨大な墓があるのか、その理由が鮮明に見えてきます。

実質的な初代天皇「崇神天皇」の皇子
『古事記』や『日本書紀』において、大入杵命は第10代崇神天皇(すじんてんのう)の皇子とされています。 崇神天皇は「ハツクニシラススメラミコト(御肇国天皇)」と称され、実在性が非常に高い「実質的な初代天皇」とも目される人物です。その治世には「四道将軍」が各地に派遣され、ヤマト王権の支配領域が飛躍的に拡大しました。
母方の血筋「尾張氏」との絆
ここで重要になるのが、大入杵命の母親の存在です。 『古事記』によれば、彼の母は尾張大海媛(おわりのおおあまひめ)。その名の通り、現在の愛知県西部にあたる強力な豪族「尾張(おわり)氏」の出身です。
実は、中能登地域(特に隣接する小田中亀塚古墳や対岸の雨の宮1号墳)には、東海地方(尾張)にルーツを持つとされる「前方後方墳」が多く築かれています。 大入杵命は、「ヤマト王権(父)」と「東海・北陸の伝統的ネットワーク(母)」という二つの強力な血統を受け継ぐサラブレッドでした。彼が「能登臣(のとのおみ)の祖」としてこの地に君臨した(あるいは派遣された)背景には、武力による制圧だけでなく、血縁と伝統に基づいた「統合の象徴」としての役割があったと考えられます。
つまり、小田中親王塚古墳に眠る人物は、ヤマトから来た侵略者ではなく、尾張や北陸のネットワークを束ねつつ、王権の威光を背負った「外交と統合の達人」だったのかもしれません。
ヤマト王権との「鏡の同盟」
この古墳がヤマト王権にとって極めて重要であった証拠は、出土遺物からも明らかになっています。
北限の「三角縁神獣鏡」
最も注目すべきは、近隣の白久志山御祖神社に伝世し、この古墳からの出土と伝えられる「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」です。 縁の断面が三角形で、神仙や霊獣が描かれたこの鏡は、当時の畿内政権が地方首長に対して政治的同盟の証(威信財)として配布したものとされています。
能登半島の小田中親王塚古墳からの出土は、日本海側における三角縁神獣鏡の分布としては北限(最北)の一つです。これは、4世紀の段階で、ヤマト王権がこの地域を「王権の及ぶ最北の重要拠点」として明確に認識し、その支配者に特別な地位を与えていたことを証明しています。
石棺に眠る一族の記憶
また、昭和37年(1962年)に土取り工事中に偶然発見された石棺からは、ヒスイ製の勾玉や管玉とともに、5〜6体分もの人骨が出土しています。 この事実は、ここが単に「大入杵命」一人だけの墓ではなく、その権威を継承した一族、あるいは殉じた人々を含めた「家族墓」的な性格を持っていたことを示唆しています。新潟県糸魚川産のヒスイの存在は、日本海沿岸の広域な交易ネットワークをこの首長が掌握していた動かぬ証拠です。
平家物語と木曾義仲
時代は下り、この古墳は歴史の表舞台に再び顔を出します。 『平家物語』には、寿永2年(1183年)、源平合戦の倶利伽羅峠の戦いで勝利した木曾義仲が、能登へ進軍した際に「小田中新王(親王)の塚」の前に陣を敷いたという記述があります。
平安時代末期には既に、この巨大なマウンドが「古代の貴人(親王)の墓」として地域社会で特別視され、ランドマークとして機能していたのです。約800年以上前から「親王塚」と呼ばれ続けてきた歴史の重み。それは、考古学的なデータだけでは測れない、人々の記憶と信仰の集積でもあります。
アクセス・拝観情報
小田中親王塚古墳(大入杵命墓)
- 住所: 石川県鹿島郡中能登町小田中
- グーグルマップの位置情報
- アクセス(電車): JR七尾線「良川駅(よしかわえき)」下車、徒歩約20分。またはタクシーで約5分。
- アクセス(車): のと里山海道「上棚矢駄IC」から車で約15分。
- 駐車場: 専用駐車場なし(近隣のスペースを利用の際は交通の妨げにならないようご注意ください)

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