三重県鳥羽市、志摩半島の先端に突き出た神聖な岬、加布良古崎（かぶらこざき）。その原生林の奥深くに、知る人ぞ知る古社が静かに鎮座しています。その名は伊射波神社（いざわじんじゃ） 。
地元では親しみを込めて「かぶらこさん」と呼ばれ 、縁結びのパワースポットとして人気を集める一方で、この神社は日本の古代史の謎を解き明かす鍵をいくつも秘めた、歴史好きにとって実にスリリングな場所なのです。
平安時代の公式記録にその名を刻み、朝廷に海の幸を献上した「御食国（みけつくに）」の聖地としての顔。そして、志摩国最高の社格「一宮（いちのみや）」の称号を巡る、もう一つの神社との複雑な関係。参拝者を拒むかのような険しい道のりから「日本一不便な一の宮」とも称されるこの神社の奥深い歴史へ、あなたをご案内しましょう 。
朝廷が認めた格式—『延喜式』が語る伊射波神社の実力
伊射波神社の歴史的重要性を理解する上で欠かせないのが、平安時代中期、西暦927年に編纂された国家の公式台帳『延喜式神名帳（えんぎしきじんみょうちょう）』です 。全国の有力神社がリストアップされたこの記録に、伊射波神社はひときわ輝く存在として記されています。
「志摩国三座（大二座、小一座） 粟嶋坐 伊射波神社 二座並大」
これは、「志摩国には三柱の神が祀られているが、そのうち粟嶋（現在の安楽島）に鎮座する伊射波神社には二柱の神がおり、いずれも大社である」という意味です。
当時、全国に数多ある神社の中で「大社」の格を与えられるのは最高の名誉であり、国家から幣帛（へいはく）を賜る重要な存在であったことを示します 。この簡潔な一文こそ、伊射波神社が単なる地域の神社ではなく、中央の朝廷からも篤く崇敬された国家鎮護の社であったことの、動かぬ証拠なのです。
「贄持つ神」の記憶—鳥羽贄遺跡とのつながり
『延喜式』が記す「粟嶋」の地には、伊射波神社の「元宮」があったと考えられています。それが、鳥羽贄遺跡（とばにえいせき）です 。
1972年から行われた発掘調査では、縄文時代から平安時代に至る長期間の祭祀の跡が発見されました。大量の製塩土器や祭祀用の土器、そして神殿跡とみられる遺構 。これらの発見は、この場所が朝廷や伊勢神宮にアワビなどの食料を「贄（にえ）」として献上する、極めて重要な役割を担っていたことを物語っています 。
伊射波神社は、まさに御食国・志摩の心臓部を司る「贄持つ神」を祀る聖地だったのです 。その記憶は、神社の祭神や祭事の中に、今なお色濃く受け継がれています。
加布良古の神々—四柱の祭神に秘められた物語
伊射波神社には、四柱の個性豊かな神々が祀られています 。その顔ぶれは、この神社の複雑な成り立ちを雄弁に物語っています。
稚日女尊（わかひめのみこと）
天照大神の妹とも、あるいは若き日の天照大神そのものであるともされる太陽の女神 。『日本書紀』では、機織りの最中にスサノオの乱暴によって命を落とし、天岩戸隠れのきっかけを作った悲劇の神として描かれます 。その一方で、神戸の生田神社に祀られ、海上交通の守護神としての強力な神威も示します 。伊射波神社では縁結びの神徳で知られ、多くの参拝者が良縁を祈願します 。
伊佐波登美尊（いさわとみのみこと）
鳥羽贄遺跡にあった元宮の祭神であり、まさに「贄持つ神」そのもの 。倭姫命（やまとひめのみこと）が伊勢の地を定める際に協力したと伝えられる、この地域の開拓神です 。
玉柱屋姫命（たまはしらやひめのみこと）
水の神・天牟羅雲命（あめのむらくものみこと）の子孫とされ、伊佐波登美尊の妻ともいわれる女神 。
狭依姫命（さよりひめのみこと）
航海の守護神として名高い宗像三女神の一柱、市杵島姫命（いちきしまひめのみこと）の別名とされます 。元々は近くの島に祀られていましたが、その島が海に沈んだため合祀されたという伝説は、伊射波神社が地域の海洋信仰の拠点であったことを示しています 。
国家神話の神、地域の英雄、そして強力な海の神々。この神々の構成は、朝廷と海に生きた志摩国を象徴する、まさに神々の評議会と言えるでしょう。
志摩国「もう一つの一宮」問題—伊雑宮との複雑な関係
歴史好きにとって最も興味深いのが、伊射波神社の「一宮」としての地位です。一宮とは、その国で最も社格が高いとされる神社のこと。しかし、志摩国には伊勢神宮の別宮である伊雑宮（いざわのみや）もまた「一宮」を名乗っており、異例の「二重一宮」状態となっているのです 。
伊雑宮側には「伊射波は伊雑の古い表記」「国府に近い」といった主張があります 。しかし、伊射波神社が一宮であるとする根拠もまた強力です。
- 『延喜式』の明確な記録：一宮制度が確立する遥か以前から、「伊射波神社」という名の独立した大社が存在したことは明らかです 。
- 中世の記録：『皇大神宮年中行事』（1192年）には「加布良古明神」の名が見え、『志陽略誌』では一宮の通称である「志摩大明神」とも呼ばれています 。
この謎を解く鍵は、当時の権力構造にあります。一宮を定めたのは地方行政機関である国府ですが、志摩国には伊勢神宮という、それを超越する絶大な宗教的権威が存在しました。
つまり、国府は独立した大社である伊射波神社を「令制国としての一宮」とし、一方で伊勢神宮はその影響圏における最高位の社として伊雑宮を「事実上の一宮」と見なした。この二つの正当な権威が並立し、時を経て混同された結果が、今日の「二重一宮」の状況を生んだと考えられます。これは、古代日本の地方行政と中央の特殊権力との緊張関係を示す、非常に興味深い歴史の断面なのです。
聖地への道のりと見どころ
伊射波神社の神髄を味わうには、その参拝の道のり自体を体験せねばなりません。駐車場から神社までは、未舗装の林道を約1km、30分ほど歩きます 。このアクセスの困難さこそが、俗世と聖域を分かつ結界の役割を果たしているのです。
- 海に向かう一の鳥居 参道の途中で海岸線に出ると、海に向かって鳥居が立っています 。かつて人々が船で参拝に訪れた時代の名残であり 、この神社と海との分かちがたい絆を象徴する絶景です。
- 神明造の社殿と領有神 苔むした急な石段を登りきると、ようやく社殿に到着します。2001年に再建された本殿と拝殿は、伊勢神宮と同じ神明造（しんめいづくり） 。素木（しらき）の直線的な美しさが、森厳な雰囲気を醸し出します 。 さらに本殿の先、岬の突端へ250mほど進むと、領有神（うしはくがみ）が磐座（いわくら）に祀られています 。海上守護の荒々しい神であり、この岬そのものが持つ根源的な力を感じさせます。
- パワースポット「奇跡の窓」 領有神の社の近くに、この巡礼のハイライトとも言える場所があります。木々の枝が自然に作り出した窓のような空間、「奇跡の窓」です 。この窓からは、水平線が完璧な構図で切り取られ、その景色が九州の形に似ていると言われています 。祭神・稚日女尊が九州から来たとされる伝承と結びつき、女神の故郷を望む神聖な場所として、多くの人が祈りを捧げます 。
現代に生きる信仰—漁師の祭りと女子旅の聖地
伊射波神社の信仰は、今も地域に力強く息づいています。
- 大漁祈願祭と御魚取り神事 毎年11月23日に行われる大漁祈願祭は、この神社ならではのユニークな神事です 。烏帽子（えぼし）姿の年長者たちが本殿の前で網を張り、参列者が「大漁じゃ！」の掛け声と共に、鯛や伊勢海老といった海の幸を網に投げ入れるのです 。これは豊漁を祈願する呪術的な儀式であり、古代の「贄持つ神」としての役割が、形を変えて現代に生き続けていることを示しています 。
- 鳥羽三女神 現代では、伊射波神社は「鳥羽三女神」の一社として、特に女性からの信仰を集めています 。
- 伊射波神社（かぶらこさん）：縁結び
- 神明神社（石神さん）：女性の願いを一つだけ叶える
- 彦瀧大明神（彦瀧さん）：女性特有の病気平癒・安産
この三社を巡る「女子旅」は人気の巡礼コースとなり、古代の神社に新たな光を当てています 。
伊射波神社への旅—アクセスガイド
「日本一不便な一の宮」への参拝は、準備が大切です。
自動車でのアクセス
- 伊勢自動車道・伊勢ICから専用駐車場まで約20分です 。
- 駐車場：カーナビには以下の住所を設定してください。ここから神社まで徒歩約30分です 。
- 住所: 〒517-0021 三重県鳥羽市安楽島町844-4
- Googleマップで位置を確認
- 備考: 駐車場は有料（500円～）で、約40台収容可能です 。
公共交通機関でのアクセス
- JR・近鉄「鳥羽駅」から、かもめバス安楽島行きに乗車し、終点「安楽島」で下車します（所要時間約15～25分）。
- 安楽島バス停:
- 住所: 三重県鳥羽市安楽島町768付近
- バス停から神社までは、案内看板に従って徒歩約30分です 。バスの便は2時間に1本程度と少ないため、事前に時刻表を確認してください 。
参拝の注意点
- 服装: 駐車場からの道は未舗装の林道です。必ず歩きやすい靴（スニーカーやトレッキングシューズ）で訪れてください 。
- 時間: 参道に街灯はありません。日没までに参拝を終え、駐車場に戻れるよう、時間に十分な余裕を持って行動してください 。
- 持ち物: 周辺に商店や自動販売機はありません。飲料水は必ず持参しましょう 。
- 御朱印: 境内は無人です。 御朱印は書置きが置かれています。
さらに深く知るために 参考文献
伊射波神社の謎にさらに分け入りたい方のために、専門的な書籍をいくつかご紹介します。
- 谷川健一 編『日本の神々 -神社と聖地- 6 伊勢・志摩・伊賀・紀伊』（白水社） 民俗学・歴史学・考古学など多角的な視点から、各地域の神社の成り立ちを深く掘り下げた名著シリーズ。伊射波神社についても詳細な考察がなされています。
- 中世諸国一宮制研究会 編『中世諸国一宮制の基礎的研究』（岩田書院） 一宮制度の成立と展開を研究した専門書。志摩国の二重一宮問題について、詳細な論考が掲載されています。
- 全国一の宮会 編『公式ガイドブック 全国一の宮めぐり』 全国の一宮を巡拝するなら必携の一冊。御祭神や由緒、アクセス情報がコンパクトにまとめられています。
- 『鳥羽市史』（鳥羽市） 地域の歴史を網羅した自治体史。神社の由緒や地域の信仰について、最も信頼できる情報源の一つです。
伊射波神社は、単なるパワースポットという言葉では語り尽くせない、日本の歴史の重層性を体現した聖地です。その険しい道のりの先に待っているのは、古代への扉を開く、静かで、しかし力強い感動に満ちた体験です。ぜひ一度、ご自身の足でこの神秘の
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