福島県会津美里町。会津盆地の南西、宮川のほとりに広がる鎮守の杜に、東北地方でも屈指の歴史と格式を誇る古社が鎮座しています。 「岩代国一之宮・会津総鎮守 伊佐須美神社(いさすみじんじゃ)」。
その歴史は2000年以上前、日本の国家形成期である神話の時代にまで遡ります。「会津」という地名の発祥地であり、歴代朝廷や戦国武将、そして民衆から篤い崇敬を受けてきたこの神社は、2008年の本殿焼失という未曾有の危機を経験しました。
しかし今、伊佐須美神社は単なる「復旧」を超え、地域社会の精神的支柱として本来の姿を取り戻す「再生」の只中にあります。本記事では、教科書には載らない神々の旅路、秘められた民俗伝承、そして2030年の再建に向けた人々の想いを、詳細に紐解いていきます。
「会津」誕生の瞬間──四道将軍の邂逅
伊佐須美神社の由緒は、そのまま「会津」という地域の成り立ちの物語でもあります。

ヤマト王権の悲願と親子の再会
時は第10代崇神天皇の御代(紀元前88年頃)。大和(奈良)を中心とする王権が、その支配領域を全国へ広げようとしていた時代です。天皇は皇族の将軍たちを「四道将軍」として各地へ派遣しました。
- 北陸道を進んだ父:大毘古命(おおひこのみこと)
- 東海道を進んだ子:建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)
日本海側と太平洋側、別々のルートで進軍し、東国の平定を成し遂げた父と子が、内陸の盆地で劇的な合流(行き会い)を果たしました。 『古事記』は、この地を「相津(あいづ)」と名付けたと記しています。これが現在の「会津」の語源です。
伊佐須美神社の主祭神は、この四道将軍父子と、国生みの神である伊弉諾尊(イザナギ)・伊弉冉尊(イザナミ)の四柱。「イサスミ」という社名は、イザナミの転訛説のほか、将軍父子が互いに「いざ進み、いざ進み」と励まし合って未開の地を開拓したことに由来するとも伝えられています。
神々の「遷座」と土着勢力との相克
伊佐須美の神は、最初から現在の場所にいたわけではありません。その鎮座地は、まるで会津盆地の開発史をなぞるかのように移動(遷座)を繰り返してきました。
山から里への「神の旅」
- 山岳信仰の時代(天津嶽): 最初に神が祀られたのは、新潟県境にそびえる御神楽岳(天津嶽)の山頂でした。人々は厳しい自然そのものを神として仰いでいたのです。
- 里への接近(博士山・明神ヶ岳): やがて神は、より人里に近い山へと移ります。
- 平地への降臨(高田南原・東原): 欽明天皇13年(552年)、ついに神は平地へと降り立ちます。これは、会津の人々が狩猟中心の生活から、大規模な稲作農耕社会へと移行し、集落(クニ)としての統合が進んだことを象徴しています。
封印された「千石太郎」の伝説
この遷座は平和裏に行われただけではありませんでした。地元の伝承には、遷座を妨害した「千石太郎(仙石太郎)」なる人物が登場します。 彼は会津に古くから住む豪族、あるいは先住の勢力の長であったと考えられています。
「新しい支配者(ヤマトの神)」と「古い土地の主(千石太郎)」。 伊佐須美神社が現在の地に定まるまでのプロセスには、古代会津における政治的な緊張と統合のドラマが隠されているのです。
神事と秘祭──重要無形民俗文化財「御田植祭」
伊佐須美神社の祭礼は、古代の農耕儀礼を色濃く残しています。中でも特筆すべきは、日本三田植の一つとされる「御田植祭(おたうえさい)」(毎年7月12日)です。
獣を追う子供たち「獅子追(ししおい)」
祭りのハイライトの一つが、早朝に行われる「獅子追」です。 獅子・馬・鹿・牛の仮面をつけた大人を先頭に、約1000人もの子供たちが棒を持って町中を追い回します。これは神輿が通る道を祓い清める露払いであり、獣(害獣)を追い払う予祝行事でもあります。「ワッショイ」ではなく独特の掛け声で町を駆ける光景は、非常に勇壮で原始的なエネルギーに満ちています。
男女逆転の呪術「早乙女踊り」
田植えを行う「早乙女(さおとめ)」を演じるのは、本来は女性の役割ですが、この祭りでは「地区の長男(男性)」が女装をして務めます。 古来、祭祀において「異性装」は、日常の境界を超え、神聖な力を招き入れる呪術的な意味を持ちました。平安時代の歌謡である「催馬楽(さいばら)」が歌われる中、厳かに行われるこの神事は、見る者を幽玄の世界へといざないます。
光と影の民俗学──殺生石と七不思議
表の歴史が「四道将軍」なら、裏の歴史として語り継がれるのが、境内の不思議な伝承群です。

那須から飛来した「殺生石」
栃木県那須湯本にある「殺生石」。九尾の狐が退治されて石となり、毒気を放ったという伝説は有名ですが、その石が砕け散って飛来した場所の一つが、ここ伊佐須美神社であるとされています。 かつて宮川の氾濫などの災害が頻発した際、人々はそれを「石の祟り」と恐れました。現在、境内には「殺生石稲荷神社」が祀られています。これは、自然災害への恐怖を「呪物」に投影し、それを手厚く祀ることで鎮めようとした、先人たちの切実な祈りの形です。
伊佐須美の七不思議
- 薄墨桜(うすずみざくら): 4月下旬に咲く御神木。花の色が「白→薄墨色→赤」と変化し、世の中に異変がある年は咲かないとも言われます。
- 飛竜の藤: 樹齢数百年、龍が空へ昇るような奇妙なねじれ方をした藤の木。
- 砂山祭の秘儀: 鶏冠(とさか)のようなものを付けた神官が行う、一般には見せない秘祭。
2008年の火災と、2030年への「再建」

2000年の歴史を持つ伊佐須美神社ですが、現代において最大の試練に直面しました。
衝撃の焼失と「天空神殿」の幻
2008年10月29日、原因不明の出火により、明治時代に建てられた荘厳な本殿・神楽殿が全焼しました。 直後、当時の神社側から提案されたのは、高さ30メートルを超える巨大な柱を持つ「天空の神殿」構想でした。しかし、巨額の費用と、伝統的な景観との乖離から地域住民との溝が深まり、再建計画は10年以上も漂流することになります。
「会津の心」を取り戻すために
2019年、新体制のもとで計画は白紙撤回されました。 「奇をてらった建物ではなく、会津の風土に根ざした、心の拠り所となる社殿を」 新たな計画では、焼失した旧社殿(流造)の面影を踏襲しつつ、耐震性などを高めた伝統的な木造建築での再建が決定しました。
現在、境内には仮社殿が設けられていますが、その前には瓦礫の中から奇跡的に救い出された狛犬や、再建を願う幟(のぼり)が立ち並んでいます。 2030年の完成を目指し、氏子崇敬会や地域住民が一丸となって進める募金活動や行事は、かつて神々がこの地を開拓した時のように、「いざ進み、いざ進み」という精神で進められています。
未来へつながる神域
伊佐須美神社の魅力は、単に「古い」ことだけではありません。 山から里への神の移動、中央権力と土着勢力のドラマ、農耕儀礼の美しさ、そして火災からの復興という現代の物語。これら全ての層(レイヤー)が、現在の社地に凝縮されています。
会津美里町の静かな杜に足を運べば、そこには2000年前から変わらぬ風が吹き、未来へ向かう人々の祈りが満ちています。 岩代国一之宮・伊佐須美神社。そこは、日本の精神史の縮図であり、何度でも蘇る「会津」という土地の魂そのものなのです。
参拝ガイド

- 所在地: 福島県大沼郡会津美里町宮林甲4377
- グーグルマップの位置情報
- アクセス:
- 【電車】JR只見線「会津高田駅」より徒歩25分
- 【車】磐越自動車道「会津若松IC」より約30分(大型駐車場あり)
- 授与品:
- 強運御守: どのような困難にも打ち勝つ強運を授かると人気。
- 御朱印: 「会津総鎮守」「一之宮」の墨書きが入った見開き御朱印。
- 周辺観光:
- あやめ苑: 神社外苑。6月中旬~7月上旬、約150種10万株のアヤメが咲き誇る。





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