【伊佐爾波神社】道後に佇む「京都級」建築の謎とは?流鏑馬伝説と1000年の歴史

愛媛県
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道後温泉のすぐそば、135段もの急な石段を見上げた先に、まるで要塞のようにそびえ立つ朱色の社殿があります。伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)です。

一歩足を踏み入れると、そこにあるのは地方の神社とは思えないほど豪華絢爛な空間。実はこの神社、大分県の「宇佐神宮」、京都府の「石清水八幡宮」と並び、「日本三大八幡造(はちまんづくり)」の一つに数えられる、極めて格式高い建築様式を持っています。

しかし、なぜ四国の一角に、これらと肩を並べるほどの壮麗な社殿が存在するのでしょうか? その謎を解く鍵は、この神社が歩んできた「1000年を超える長い旅」と、ある藩主のドラマにありました。

実は1000年以上!道後公園から「引っ越し」てきた神様

現在の豪華な社殿は江戸時代のものですが、神社の歴史そのものは遥か古代に遡ります。 平安時代の書物『延喜式神名帳』にもその名が記されている、由緒正しい「式内社」なのです。つまり、1000年以上前からこの道後の地を見守り続けてきました。

元々は「道後公園」にあった?

実は、創建当初から現在の場所(桜谷町の山の上)にあったわけではありません。 もともとは、現在の道後公園(湯築城跡)がある場所、「伊佐爾波岡」に鎮座していたと伝えられています。

■戦国武将による「戦略的」な遷座

転機が訪れたのは中世、建武年間(1334年〜)。 伊予国を支配した守護大名・河野氏(こうのし)が、本拠地として「湯築城(ゆづきじょう)」を築く際、城の守りを固めるために、神社を現在の場所へと移しました。

つまり、現在の伊佐爾波神社が険しい山の上にあり、道後の街を見下ろしているのは、「お城を守る要塞(裏鬼門の守護)」としての役割を与えられたからなのです。


江戸時代の危機 藩主・松平定長を襲ったプレッシャー

時代は下り、江戸時代前期の寛文2年(1662年)。 この由緒ある神社に、再び大きな転機が訪れます。松山藩3代藩主、松平定長(まつだいら さだなが)のもとに、徳川将軍家から重大な命令が下ったのです。

「江戸城内にて、流鏑馬(やぶさめ)を披露せよ」

流鏑馬とは、疾走する馬の上から的を射る高度な武芸。将軍の御前での失敗は「武門の恥」とみなされ、最悪の場合、お家取り潰しにも繋がりかねない、一族の運命を左右する儀式でした。

弓の名手として知られていた定長ですが、そのプレッシャーは計り知れないものでした。「もし外したら……」という恐怖が、若き藩主を襲います。


神への誓いと「金色の鳩」の奇跡

追い詰められた定長は、城の守護神であり、源氏の氏神でもある伊佐爾波神社(当時は湯月八幡宮)に、ある「願文」を奉じます。

「もし江戸での流鏑馬において、見事金的を射止めることができたなら、京都の石清水八幡宮と同じ荘厳な社殿に建て替えて寄進いたします

これは、単なる神頼み以上の「契約」でした。 そして迎えた競射の当日。定長が弓を引き絞ったその瞬間、伝説では「一羽の金色の鳩(八幡神の使い)」が飛び立ち、矢を導いたといわれています。

矢は見事に的中。定長は面目を施し、松山藩の武威を江戸中に轟かせることができたのです。


約束の履行 京都への対抗心と藩のプライド

無事に松山へ戻った定長は、神との約束を果たすため、直ちに社殿の造営に着手します。 彼が目指したのは、誓い通り「京都・石清水八幡宮」の模倣でした。

地方の大名が、京都の最高位の八幡宮と同じ様式(八幡造)を採用することは、並外れた野心であり、「松平家こそが八幡神の正統な守護者である」という政治的アピールでもありました。

  • 総朱塗りの柱
  • 極彩色の彫刻
  • 本殿の屋根が前後に二つ並ぶ「八幡造」

これらは、古代からの権威(式内社)と、中世の立地(城の守護)、そして近世の財力(松平氏)が融合して生まれた奇跡の建築なのです。

伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)基本情報

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