埼玉県行田市、「埼玉古墳群」。その中でも最古級にして、日本考古学史を揺るがす最大の発見をもたらしたのが稲荷山古墳(いなりやまこふん)です。
1968年の発掘調査、そして1978年のX線撮影による国宝「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」の文字発見。 錆びついた刀身から浮かび上がった115文字は、謎に包まれていた5世紀(いわゆる「空白の4世紀」に続く時代)の歴史を一気に解明する鍵となりました。
今回は、稲荷山古墳の墳丘構造の謎から、鉄剣銘文が示唆する「471年 vs 531年論争」、そして被葬者「ヲワケ」が担った政治的役割まで、発掘報告書レベルの情報を基に徹底解説します。
稲荷山古墳の「解剖」 東国独自の王墓構造
稲荷山古墳は、5世紀末に築造された全長120mの前方後円墳です。埼玉古墳群の中で最初に造られたこの巨大古墳には、畿内(ヤマト)の影響と、この地域独自のこだわりが混在しています。
「葺石がない」という謎
通常、ヤマト王権の大王墓や有力な前方後円墳は、斜面が石(葺石)で覆われています。しかし、稲荷山古墳にはそれがありません。 その代わり、テラス面には赤褐色の円筒埴輪が密に巡らされていました。石の白さではなく、むき出しの土と赤い埴輪のコントラストによって、視覚的なインパクトを狙った可能性があります。
雨の日だけ現れる「水の城」
古墳を囲む二重の周堀(内堀・中堤・外堀)にも特徴があります。 調査の結果、この堀は常時水を湛えていたわけではないことが判明しました。底が浅く、通常は空堀に近い状態でしたが、雨季や地下水位が上がった時にのみ水が溜まる構造だったのです。 雨が降ると、巨大な古墳が水面に浮かぶ「島」のように演出される——古代の葬送儀礼において、この劇的な景観変化が意識されていたのかもしれません。
奇跡のタイムカプセル「礫槨」
後円部の頂上からは、2つの埋葬施設が見つかりました。
- 第一主体部:礫槨(れきかく) – 未盗掘
- 第二主体部:粘土槨(ねんどかく) – 盗掘済み
注目すべきは、主人の墓である「礫槨」です。これは墓穴に川原石を分厚く敷き詰め、その中に木棺を安置する構造で、畿内の「竪穴式石室」の変形とも言える形式です。 ここが奇跡的に盗掘を免れていたため、1500年前の副葬品の配置状況が完全に保たれていました。遺骸の周りには武器、武具、鏡、工具が整然と並び、当時の埋葬儀礼を知る上での第一級史料となっています。
国宝「金錯銘鉄剣」の全貌と「辛亥年」論争
礫槨から出土した鉄剣の表裏には、金象嵌(きんぞうがん)で鮮やかに文字が刻まれていました。その内容は、単なる所有者名ではなく、自身の家系と功績を誇る「政治的ドキュメント」でした。

銘文が語る「系譜」と「奉仕」
銘文は大きく二つのパートに分かれます。
- 【表面】系譜の開示: 「上祖の名はオホヒコ(大彦命)」から始まり、8代にわたる系図を列挙。最後に自身の名「ヲワケの臣」を記しています。 ※大彦命は『日本書紀』で四道将軍の一人として北陸に派遣された皇族。ヲワケは自らを皇別氏族(王権と血がつながる一族)と位置づけ、支配の正統性を主張しています。
- 【裏面】功績の記録: 代々「杖刀人首(じょうとうじんのかしら=親衛隊長)」として奉仕し、現在は「ワカタケル大王(獲加多支鹵大王)」の「シキの宮」に仕え、天下を治めるのを助けている、と記します。
最大の論点 「辛亥年」はいつか?
銘文冒頭にある「辛亥年(しんがいのとし)」が西暦何年を指すかで、かつて大きな論争がありました。
- 【471年説(定説)】 ワカタケル大王を雄略天皇(大泊瀬幼武天皇)に比定。雄略天皇の在位期間や、共に出土した須恵器・馬具の型式(5世紀末の特徴)と合致するため、現在はこの説が通説です。
- 【531年説】 『日本書紀』の安閑・宣化朝の混乱期(辛亥の変)に関連付ける説。しかし、考古学的な遺物の編年とズレが生じるため、支持は限定的です。
この鉄剣により、「雄略天皇の実在」と「471年時点で王権の支配が関東に及んでいた」ことが確定したのです。
「ヲワケ」とは何者か? 地方豪族の二重性
被葬者である「ヲワケ」は、どのような人物だったのでしょうか。銘文と出土品から、彼の極めて高度な政治的立場が浮かび上がります。

「笠原」の在地首長
彼の父の名「カサハラ(加差披余)」は、現在の埼玉県鴻巣市「笠原」の地名と一致します。つまり、彼らは中央からの派遣官僚ではなく、北武蔵に根を張った在地の有力豪族でした。
中央の軍事官僚
一方で、彼は「杖刀人首」として中央(ヤマト)に出仕していました。 これは単なる服属関係ではありません。地方のリーダーが上京し、大王の親衛隊長という王権中枢の役職(官僚的な地位)を得ていたことを意味します。 彼は「地方の王」であると同時に、「中央の官人」という二重の顔を持つことで、地域内での圧倒的な権威を維持していたのです。
武蔵から見える「5世紀の軍事革命」
副葬品からは、当時の軍事技術の劇的な変化も見て取れます。
- 騎馬戦術の導入: 身体の動きを妨げない挂甲(けいこう:小札鎧)や、足を守る鐙(あぶみ)などの馬具一式が出土しています。これは、従来の歩兵戦から、騎馬による機動戦へと戦術が転換したことを示します。
- 大陸とのコネクション: 金銅製の帯金具や馬具の装飾技術は、朝鮮半島(伽耶・百済)にルーツを持ちます。ヲワケの一族は、ヤマト王権の外交ルートを通じて、あるいは独自に、最新の国際情勢と軍事技術に触れていました。
1500年前の「歴史の証言者」に会いに行こう
稲荷山古墳の鉄剣発見は、神話の世界(記紀)と現実の歴史(考古学)を見事に結びつけました。 熊本県の江田船山古墳からもワカタケル銘の大刀が出土していることから、5世紀後半の日本列島には、九州から関東に至る広域なネットワークが確実に存在していました。
現在、埼玉県行田市の「さきたま古墳公園」では、復元された稲荷山古墳に登ることができます。頂上から関東平野を見渡せば、かつてヲワケが見たであろう風景と、彼が守ろうとした領域を感じることができるでしょう。
そして、公園内の「埼玉県立さきたま史跡の博物館」では、国宝「金錯銘鉄剣」の実物が展示されています。 教科書で見たあの115文字の本物を、ぜひその目で確かめてみてください。そこには、1500年の時を超えた、生々しい歴史の息吹があります。
詳細アクセス情報
所在地 〒361-0025 埼玉県行田市埼玉4834 (さきたま古墳公園内)

電車・バスでお越しの場合
最も一般的なルートは JR高崎線「行田駅」 からのバス利用です。
- JR高崎線「行田(ぎょうだ)駅」下車
- 東口ロータリーへ出ます。
- 行田市内循環バス「観光拠点循環コース」に乗車
- 左回り・右回りどちらでも行けますが、所要時間が異なります。
- 左回り:約15分
- 右回り:約35分
- 「さきたま古墳公園前」バス停で下車
- バス停から稲荷山古墳・博物館までは徒歩すぐです。
※ 秩父鉄道「行田市駅」 からも循環バスが出ていますが、本数やルートにご注意ください。JR行田駅からのルートが観光客には最も分かりやすいです。
お車でお越しの場合
無料の大型駐車場が完備されています。
- 東北自動車道「羽生IC」から
- 約25分(国道125号バイパス経由)
- 関越自動車道「東松山IC」から
- 約40分
- 圏央道「白岡菖蒲IC」から
- 約40分(国道17号バイパス経由)
駐車場
- さきたま古墳公園駐車場(無料:普通車295台)
- 博物館や稲荷山古墳に最も近い駐車場です。ナビ設定は「埼玉県立さきたま史跡の博物館」にするとスムーズです。








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