岐阜県岐阜市、金華山の麓。 ここに、1900年以上の歴史を刻む美濃国総鎮守、「伊奈波神社(いなばじんじゃ)」が鎮座しています。
多くの歴史ファンにとって、岐阜といえば「斎藤道三」や「織田信長」のイメージが強いかもしれません。しかし、この神社の杜に足を踏み入れると、戦国時代よりも遥かに古い、ヤマト王権の黎明期における「血塗られた権力闘争」と「鎮魂の物語」が見えてきます。
なぜ、この地の神は「強力なパワースポット」として畏怖されるのか? なぜ、織田信長はこの神社を特別視したのか?
今回は、ヤマト王権による東国支配の重要人物でありながら、悲劇の将軍として歴史の闇に葬られた主祭神「五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコノミコト)」の謎に迫る、歴史探訪の旅へご案内します。
英雄か、逆賊か?「五十瓊敷入彦命」の正体
伊奈波神社の主祭神である五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコノミコト)。 名前の響きからして古代の威厳を感じさせますが、彼は第11代垂仁天皇の皇子であり、第12代景行天皇の同母兄にあたる人物です。

弟・景行天皇への譲位と「武」の道
彼は天皇の長子でありながら、皇位を弟の大足彦尊(オオタラシヒコ=後の景行天皇)に譲ったとされています。 『日本書紀』の伝承によれば、父・垂仁天皇が兄弟に「欲しいものは何か」と尋ねた際、弟は「皇位」を望み、兄である五十瓊敷入彦命は「弓矢(軍事力)」を望んだといいます。
こうして彼は、天皇になる代わりに軍事長官としての役割を担い、朝廷の命を受け奥州(現在の東北地方)の平定や、河内・大和の治水事業などで絶大な功績を挙げました。
しかし、その強すぎる武功は、やがて悲劇を生むことになります。
妬みと謀略、そして「金石」の呪い

英雄を陥れた「讒言」
奥州平定を成し遂げ、凱旋しようとした命を待っていたのは、賞賛ではなく「謀反の疑い」という讒言(ざんげん)でした。 陸奥守の豊益(とよます)という人物が、命の成功を妬み、朝廷に虚偽の報告をしたのです。
「英雄、逆賊となる」
この報せを受けた朝廷軍は、あろうことか功労者である命を討伐するために動き出します。 無実の罪を着せられた命は、美濃の地(現在の岐阜市周辺)で追い詰められ、無念の中で討たれました。西暦84年(景行天皇14年)のことと伝えられています。
御霊信仰の発生
無実の罪で殺された英雄の霊は、強力な「怨霊(おんりょう)」となり、祟りをなすと古代人は考えました。 その強大なエネルギーを鎮め、逆に強力な守護神として祀り上げるシステム、それが「御霊信仰(ごりょうしんこう)」です。
伊奈波神社は、この悲劇の英雄を鎮魂するために創建されました。 つまり、この神社が持つ「強力なパワー」の源泉は、「強すぎる無念」が「最強の守護」へと反転したエネルギーにあると言えるのです。
古代製鉄と「物部氏」の影
単なる悲劇の物語の裏に、もっと現実的で政治的な「資源争奪戦」の影が見え隠れします。
謎の秘宝「金石」とは何か?
五十瓊敷入彦命は、奥州から「金石(きんせき)」と呼ばれる宝を運んでいたという伝説があります。 この「金石」は、命が討たれた際、美濃の地で一夜にして山になったとも伝えられています。
歴史地理学的な視点で読み解くと、この「金石」が何を指すかは明白です。 それは、「砂鉄」や「銅」といった鉱物資源、あるいはそれらを精錬した「鉄素材」でしょう。
古代において、東北地方は砂鉄や金の産地でした。 奥州平定の真の目的は、この金属資源のルート確保にあったと考えられます。そして、その莫大な利権を誰が握るかという争いが、「謀反の疑い」という形をとった権力闘争の実態だったのではないでしょうか。 五十瓊敷入彦命は、石上神宮に神剣一千口を納めたという伝承もあり、「剣(鉄)の管理者」としての性格を強く持っています。
武装集団「物部氏」の痕跡
この仮説を裏付ける証拠が、伊奈波神社の境内にあります。 実は、現在の伊奈波神社がある場所には、かつて「物部神社」があり、現在は伊奈波神社に合祀されています。
「物部氏」といえば、古代の軍事・警察機能を担い、同時に武器製造(製鉄・鍛治)を掌握していた氏族です。 美濃国は、古くから刀匠の街として知られますが、そのルーツは古代の物部氏による金属加工拠点がこの地にあったことに由来する可能性があります。
- 五十瓊敷入彦命=鉄資源と武器を掌握した将軍
- 物部神社=金属加工と軍事の拠点
この二つが重なる伊奈波神社は、単なる宗教施設ではなく、ヤマト王権の「東国軍事・生産拠点」としての性格を帯びていたことが推測できるのです。
斎藤道三と織田信長による「神の引越し」
時代は下り、戦国時代。 この古代の聖地を、ドラスティックに改造した男が現れます。「美濃のマムシ」こと、斎藤道三です。
「神は城の下に置け」
もともと伊奈波神社は、現在地よりも山の上、稲葉山(金華山)の中腹にある「丸山」に鎮座していました。 しかし、天文8年(1539年)、道三は稲葉山城の防御機能を高めるため、神社を現在の山麓へと遷座させます。
「城より高い場所に神がいては、城を見下ろすことになる」 あるいは、 「山上の要害は軍事施設として独占したい」
そんな道三の合理的かつ冷徹な戦略が見て取れます。これにより、伊奈波神社は「城下町の総鎮守」として、城の入口を守り、民衆を精神的に束ねる役割を担わされることになりました。
信長が認めた権威
その後、稲葉山城を攻略し「岐阜」と名付けた織田信長もまた、この神社を重要視しました。 信長は、自身の家紋である「五七の桐(ごしちのきり)」の使用を神社に許可したとされています。現在でも、伊奈波神社の御朱印には皇室の「菊紋」と共に、信長ゆかりの「桐紋」が並んで押されています。
既存の宗教勢力を弾圧したイメージのある信長ですが、伊奈波神社に対しては、戦勝祈願を行うなど深い崇敬を寄せていました。五十瓊敷入彦命という「朝廷に翻弄された武人」の物語に、信長は何かしらの共感を抱いていたのかもしれません。
「異形」のパワースポット
歴史の重みを感じた後は、境内にある注目のパワースポットをご紹介します。 伊奈波神社には、他では見られない「異形」の存在があります。
全国的にも珍しい「逆さ狛犬」

拝殿へと続く階段を登りきり、神門をくぐると、両脇に狛犬がいます。 しかし、普通の狛犬ではありません。
後ろ足を高く天に蹴り上げ、頭を低くして地面を睨む、アクロバティックな姿勢。
これが有名な「逆さ狛犬」です。 「雲を蹴り上げて飛躍する」姿とされ、その頭を撫でると「金運」や「勝負運」が飛躍的に上がると伝えられています。 地を這うような姿勢から一気に跳ね上がるその姿は、一度は「逆賊」の汚名を着せられながらも、美濃総鎮守として復活した祭神・五十瓊敷入彦命の生き様(死に様)を象徴しているようにも見えます。
願望成就の最強磁場「黒龍神社」

もう一つ、忘れてはならないのが、境内社である「黒龍神社(黒龍大神)」です。 本殿に向かう参道の途中、右手に鎮座するこの社は、近年「とにかく願いが叶う」「強力すぎる」として、熱烈な信仰を集めています。
もともとこの地の地主神であった龍神様ですが、斎藤道三による遷座の際も、その強い霊力ゆえに排除されることなく祀られ続けました。 社殿の脇にある「龍頭岩」は、まさに龍が顎をあげて天を仰ぐ姿そのもの。 ここでは「黒龍福成る守」というお守りを手で打ち鳴らして祈願する特殊な参拝方法があり、その音色が龍神に願いを届けるとされています。
【伊奈波神社 アクセス・基本情報】

- 住所: 岐阜県岐阜市伊奈波通1-1
- アクセス:
- JR岐阜駅・名鉄岐阜駅からバス(N系統・長良橋方面)乗車、「伊奈波通り」下車、徒歩約10分。
- 駐車場: あり(参拝者用・約30台)※初詣や祭礼時は利用不可
- 主な祭礼: 岐阜まつり(毎年4月第1土曜・日曜)



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