大阪府高槻市に、古代史上重要な巨大古墳が存在します。 その名は、今城塚古墳(いましろづかこふん)。
宮内庁によって「継体天皇陵」とされているのは、ここから1.5kmほど離れた太田茶臼山古墳です。しかし、歴史学・考古学の世界では、「今城塚古墳こそが、第26代継体天皇が眠る真の陵墓である」ということが、ほぼ確実視されています。
なぜ、このようなズレが生じたのか? そして、発掘調査によって白日の下に晒された「日本最大の埴輪祭祀場」と「遥か九州から運ばれた石棺」は、何を意味するのか?
今回は、謎多き「新王朝の始祖」継体天皇の足跡を追いながら、今城塚古墳の考古学的発見と、そこに秘められたヤマト王権の真実へご案内します。
「真の継体天皇陵」はなぜ今城塚なのか?
まず最初に、最大のミステリーである「陵墓の比定問題」について整理しましょう。これを知っているだけで、現地を歩く時の視点が変わります。
宮内庁治定との「100年のズレ」

現在、宮内庁が継体天皇陵(三島藍野陵)として管理しているのは、茨木市にある「太田茶臼山古墳」です。これは江戸時代の学者たちの研究や伝承に基づいて決定されたものです。 しかし、戦後の考古学調査が進むにつれ、決定的な矛盾が浮かび上がりました。
- 継体天皇の崩御時期: 6世紀前半(531年頃)
- 太田茶臼山古墳の築造: 5世紀中頃(出土した埴輪の特徴より)
なんと、約80〜100年ものずれがあるのです。継体天皇が生まれる前に作られたお墓に、天皇が入ることはあり得ません。
科学が証明した「今城塚=真陵」説

一方、今城塚古墳は6世紀前半の築造であることが確認されており、時代が完全に合致しています。 この説を決定づけたのが、両方の古墳に埴輪を供給していた「新池埴輪製作遺跡」の研究です。地層の重なり方(層位)から、太田茶臼山古墳用の埴輪は古く、今城塚古墳用の埴輪は新しい地層から出土することが科学的に証明されたのです。
さらに、『延喜式』などの古文書には陵墓の場所が「島上郡」にあると記されていますが、太田茶臼山古墳があるのは「島下郡」。地名的にも、島上郡に位置する今城塚古墳の方が正しいのです。
こうした証拠の積み重ねにより、現在では「今城塚こそが真の継体天皇陵」というのが歴史学界の揺るぎない定説となっています。そして、宮内庁の管理外であるため、「大王の墓に誰でも自由に立ち入り、登ることができる」という、全国でも稀有なスポットとなっているのです。
地震で崩れた墳丘と、蘇った「本来の姿」
今城塚古墳は全長約181m(濠を含めると約350m)の前方後円墳ですが、一見すると形が崩れているように見えます。かつては、戦国時代に砦として使われた際に改変されたと考えられていました。
しかし、平成の発掘調査で驚きの事実が判明しました。 墳丘が大きく崩れていた原因は、人為的な破壊ではなく、慶長元年(1596年)の「伏見地震」による大規模な地滑りだったのです。
発掘現場では、盛り土が地滑りをおこして濠の中へ崩落した痕跡が生々しく確認されました。1500年という長い時の中で、大王の墓もまた、列島を襲う天災と無縁ではいられなかったのです。 現在整備されている史跡公園は、こうした災害の痕跡も含めて保存されており、歴史の重層性を肌で感じることができます。
圧巻の光景!日本唯一の「埴輪祭祀場」を読み解く
今城塚古墳最大の見どころ、それは内堤から張り出した広大なステージに再現された「埴輪祭祀場(はにわさいしじょう)」です。
長さ65m、幅10mの区画に、家、人物、動物、器材など200点以上の形象埴輪が並んでいます。これらは無造作に置かれているのではなく、「4つの区画」に分けられ、ある壮大な儀式を再現しています。
【一区】大王の魂が眠る「神聖な空間」

最も奥にあるこのエリアには、立派な千木(ちぎ)を持つ家形埴輪が並びます。これは大王の遺体を安置する「殯宮(もがりのみや)」を表していると考えられます。人物埴輪は配置されず、静寂に包まれた聖域です。
【二区】儀式を執り行う「祈りの空間」
ここには巫女の姿をした埴輪が並びます。神聖な第一区の建物に向かって奉仕し、食事を供えたり祈りを捧げたりする様子が表現されています。
【三区】王権継承の「饗宴の空間」

最も賑やかなのがこのエリア。椅子に座る高貴な人物、太鼓を叩く人、力士(相撲をとる人)、そして鵜飼いの様子などが表現されています。これは、先代の大王を悼むと同時に、新しい大王への王権継承を祝う饗宴の儀式を表していると推測されます。
【四区】聖域を守る「武人の空間」

祭祀場の入り口にあたるこの場所には、鎧兜で武装した武人や、馬の埴輪が配置されています。儀式の場を邪悪なものから守る警護の役割を果たしていたのでしょう。
このように、今城塚古墳の埴輪群は単なる飾りではなく、「大王の葬送儀礼そのものを、土の人形たちによって永遠に再現し続ける装置」だったのです。
九州・阿蘇の石が語る「磐井の乱」と継体天皇の覇権

埋葬施設の発掘調査では、石室の基盤となる巨大な「石室基壇」が見つかりましたが、残念ながら石室自体は盗掘で破壊されていました。しかし、粉々になった石棺の破片が、とてつもない歴史的事実を教えてくれました。
そこには、産地の異なる3種類の石棺の破片が混在していたのです。
- 二上山の凝灰岩(奈良・大阪): ヤマト王権の膝元
- 竜山石(兵庫): 大王家の石棺として伝統的に使われる石
- 阿蘇ピンク石(熊本): 九州・宇土半島産の溶結凝灰岩
特に注目すべきは、3つ目の「阿蘇ピンク石」です。 熊本県宇土半島から大阪の高槻まで、直線距離でも500km以上。重機のない時代に、数トンもの巨大な石を海路ではるばる運んできたのです。
なぜ九州の石なのか?
ここで歴史の点と点が繋がります。継体天皇の晩年(527年)に起こった最大の内乱「磐井の乱」です。 九州北部で強大な勢力を誇った筑紫君磐井(つくしのきみいわい)を、ヤマト王権軍は激戦の末に鎮圧しました。
継体大王は、反乱の首謀者である磐井の勢力圏(あるいはその隣接地域)から、鮮やかなピンク色の石を切り出させ、自らの棺としました。 これは単なる資材の調達ではありません。 「私は反乱を鎮圧し、西日本全域を完全に掌握した勝利者である」 という、強烈な政治的デモンストレーション(戦勝記念)なのです。
淀川水系を掌握せよ!「船」が示す王権の基盤
継体天皇は、それまでの大王たちが本拠地とした大和(奈良盆地)ではなく、淀川流域(大阪・京都)を拠点としました。 その象徴が、今城塚古墳から出土した円筒埴輪に描かれた「船の絵」です。
当時の輸送手段は船でした。 大和川水系(奈良)は大規模な水運には不向きでしたが、淀川水系は瀬戸内海を通じて九州や朝鮮半島と直結するものした。
継体天皇は、この淀川水系を完全に掌握することで、
- 大陸からの先進技術・文物の輸入
- 九州遠征(磐井の乱)のための兵員・物資の大量輸送 を可能にしました。
今城塚古墳が高槻の台地上に築かれたのも、眼下を流れる淀川を行き交う船に対し、「この水系を支配しているのは誰か」を見せつけるためだったに違いありません。
現地訪問ガイド
今城塚古墳を訪れるなら、以下のルートがおすすめです。
今城塚古代歴史館(いましろ大王の杜に隣接)
まずはここへ。入館は無料です。 しかし展示内容は国宝級。発掘された本物の埴輪や、3種類の石棺の復元モデル、そして巨大なジオラマが展示されています。特に「阿蘇ピンク石」の実物は、その独特な色合いと質感をぜひ目で見て確認してください。「あんな遠くからこれを運んだのか…」と感動すること間違いなしです。
墳丘への登頂
博物館で予習したら、いよいよ古墳へ。 内堤の埴輪祭祀場(レプリカ展示)で記念撮影をした後、ぜひ墳丘へ登ってください。後円部の頂上からは高槻の街並みが見渡せます。かつてはここから淀川の流れが見えたはずです。大王と同じ視点に立つ体験は、他では味わえません。
アクセス・基本情報
- 名称: 今城塚古墳公園(いましろ大王の杜)
- 住所: 大阪府高槻市郡家新町19-10
- アクセス:
- JR京都線「摂津富田」駅 または 阪急京都線「富田」駅下車。
- 高槻市営バス「南平台経由奈佐原」行きに乗車、「今城塚古墳前」下車すぐ。
- 駐車場: あり(いましろ大王の杜駐車場など / 最初の30分無料など利用しやすい設定です)
謎の大王が残した「歴史書」としての古墳
越前や近江という地方から現れ、断絶の危機にあった王統を継ぎ、国内の反乱を平定してヤマト王権の基盤を固めた継体天皇。 彼の生涯は、まさに波乱万丈です。
今城塚古墳は、文字で書かれた歴史書以上に雄弁に、その生涯を物語っています。 崩れ落ちた墳丘、整然と並ぶ埴輪たち、そして遥か九州から運ばれたピンク色の石。それらすべてが、1500年前の権力闘争と国家形成の熱量を今に伝えています。
次の休日は、古代史のミステリーとロマンが詰まった高槻・今城塚古墳へ、歴史旅に出かけてみませんか?




コメント