日本の歴代天皇の中に、その名が刻まれていない「幻の女帝」がいたことをご存知でしょうか? その名は飯豊天皇(いいとよてんのう)。5世紀末、政治の混乱を収め、一時的に国を治めたとされる皇族の女性です 。
『古事記』や『日本書紀』といった最も古い史書にその治世が記されながらも、彼女は公式な天皇の系譜には含まれていません 。しかし、不思議なことに、後世の歴史書では「飯豊天皇」と尊称され、その墓は宮内庁によって天皇や皇后の墓を意味する「陵(みささぎ)」として、今も大切に管理されています 。
なぜ、彼女は天皇でありながら天皇ではないのでしょうか? この矛盾こそが、古代史の大きな謎であり、私たちを惹きつけてやみません。この記事では、文献史学と考古学の視点から、日本最初の女帝ともいわれる飯豊天皇の数奇な運命と、歴史の裏に隠された真実に迫ります。
血塗られた皇位継承 飯豊天皇が登場した激動の時代
飯豊天皇が歴史の表舞台に登場したのは、個人的な野心からではありませんでした。それは、前代未聞の王朝の危機に対する、必然的な行動だったのです。
恐怖政治の時代
飯豊天皇の時代に先立つ5世紀後半、第21代・雄略天皇は、自らの権力を確固たるものにするため、皇位継承のライバルとなりうる皇族を次々と粛清しました 。その最も悲劇的な事件が、雄略天皇が従兄弟であり、一説には飯豊天皇の父とされる市辺押磐皇子(いちのべのおしわのみこ)を狩りに誘い出し、殺害した一件です 。
これにより、市辺押磐皇子の二人の息子、後の仁賢天皇と顕宗天皇は、命からがら播磨国(現在の兵庫県)へ逃亡し、身分を隠して暮らすことを余儀なくされました 。

後継者なき国家の危機
やがて雄略天皇が亡くなり、息子の清寧天皇が即位しますが、なんと清寧天皇は世継ぎを残さずに崩御してしまいます 。雄略天皇が築いたはずの直系はわずか一代で途絶え、大和朝廷は国を導くリーダーを失うという、国家存亡の危機に瀕したのです。
この権力の空白を埋めるために立ち上がったのが、かつて迫害された皇族の生き残り、飯豊天皇でした。彼女の最大の使命は、行方不明となった二人の皇子を探し出し、正当な皇位継承者として迎え入れることでした 。彼女の統治は、雄略天皇の恐怖政治によって引き裂かれた皇統を再びつなぎ合わせる、「架け橋」としての役割を担う、歴史の修正行為だったのです。
叔母か、それとも姉か?飯豊天皇、二つの出自の謎
飯豊天皇が何者であったのかを探る上で、史書は私たちを悩ませます。『古事記』と『日本書紀』では、彼女の出自について異なる記述が残されているのです。
- 叔母(おば)説: 『古事記』や『日本書紀』の一部では、飯豊天皇は第17代・履中天皇の皇女とされています 。この場合、彼女は探し求めた二人の皇子(顕宗・仁賢天皇)の 父方の叔母にあたります。
- 姉(あね)説: 一方で、『日本書紀』の別の箇所では、彼女は殺害された市辺押磐皇子の娘、つまり二人の皇子の姉であると記されています 。
【史料に見る飯豊天皇の系譜】
| 史料 | 父 | 顕宗・仁賢天皇との関係 | 権威の源泉 |
| 『古事記』 | 履中天皇 | 父方の叔母 | 天皇の娘という高貴な血筋そのもの。 |
| 『日本書紀』(一部) | 履中天皇 | 父方の叔母 | 同上。 |
| 『日本書紀』(別箇所) | 市辺押磐皇子 | 姉 | 弟たちの正統性を守る保護者としての役割。 |
なぜ一つの書物の中に矛盾した記述が存在するのでしょうか。これは単なる間違いではなく、編纂者たちの意図があったと考えられます。「姉」という設定は、命がけで幼い弟たちを守り、皇位を回復させるという感動的な物語を演出し、弟たちの即位を劇的に正当化します。一方で「叔母」という設定は、彼女自身が天皇の娘として、誰にも依存しない独立した権威を持っていたことを示します。
この系譜の混乱自体が、飯豊天皇という存在の複雑さと、歴史が多様な物語から成り立っていることを示す、貴重な証拠と言えるでしょう。
豪族・葛城氏の切り札 彼女はなぜ権力を握れたのか
皇族の女性というだけでは、国家の危機を乗り切ることはできません。飯豊天皇の権力を背後で支えたのが、当時の最大有力豪族・葛城氏でした。
彼女が政治を執った場所は、大和の中心地ではなく、忍海角刺宮(おしぬみのつのさしのみや)という宮殿でした 。この「忍海」という土地は、現在の奈良県葛城市にあたり、まさに葛城氏の本拠地だったのです 。
実は、前述した二つの系譜のどちらをとっても、飯豊天皇の母親は葛城氏の出身でした 。つまり、彼女は皇族と有力豪族、二つの強力な血を引くハイブリッドな存在だったのです。かつて葛城氏は多くの后妃を輩出し朝廷で絶大な権力を誇りましたが、雄略天皇によってその力は大きく削がれていました 。
雄略天皇の血筋が途絶えた今、葛城氏の血を引く飯豊天皇が、母方の故郷である葛城の地で政治を行う。それは、葛城氏の政治的復権を象徴する出来事でした。彼女の権威は、葛城氏の軍事力・経済力によって強力に裏付けられていたからこそ、現実のものとなり得たのです。

「一度きりの恋」で独身を貫いた?史書が描く謎めいた素顔
『日本書紀』には、飯豊天皇の人間性を垣間見せる、非常に興味深い逸話が残されています。
「飯豊皇女、角刺宮に於いて、夫と初めて交したまふ。人に謂りて曰はく、『一たび女の道を知りぬ。又安にか異ならむ。終に男に交はむことを願せじ』」
現代語に訳すと、「角刺宮で、飯豊皇女は初めて男性と関係を持った。そして人にこう語った。『一度、女性としての道を知ったけれど、これがどれほど特別なことだろうか。これより後は、二度と男性と交わることは願うまい』」となります。
権力の頂点に立つ女性が、たった一度の経験で性愛に幻滅し、自ら独身を宣言する。これは皇室の歴史の中でも他に類を見ない、非常にパーソナルな記述です。
この逸話は、彼女が巫女的な存在であった証拠とも、あるいは単なる個人の選択とも解釈できます。しかし、歴史的な文脈で読み解くと、別の側面が見えてきます。
男系継承を重んじる社会において、権力を持つ女性支配者が子を産むことは、皇位継承の新たな火種になりかねません。この逸話は、飯豊天皇が自らの意思で子孫を残さないと決めたことで、弟たちへの皇位継承を盤石なものにした、と解釈できるのです。史書の編纂者たちは、彼女の政治的影響力を認めつつも、その血筋が後世の皇統に影響を与えないよう、この物語を通じて巧みに「封じ込め」を行ったのかもしれません。

なぜ彼女は後世に「天皇」となったのか
興味深いことに、『古事記』や『日本書紀』が編纂された8世紀の時点では、彼女に「天皇」の称号は与えられていませんでした。しかし、時代が下った平安時代、11世紀頃に書かれた『扶桑略記』という歴史書では、彼女は第24代「飯豊天皇」として、はっきりと天皇の系譜に記載されています 。
これは、歴史の再発見というよりは、「歴史の修正」でした。万世一系、つまり天皇の血筋が一度も途切れることなく続いているという理念が重要視されるようになると、清寧天皇の死後に後継者がいなかった「空位期間」は、その理念にとって都合の悪い欠陥となります。
そこで、飯豊天皇の存在がクローズアップされます。彼女を正式な天皇として位置づけることで、この空白期間は「飯豊天皇の治世」となり、皇統が途切れることなく続いたという、美しい物語が完成するのです。「飯豊天皇」という称号は、後世のイデオロギー的な要請によって与えられた、追贈の諡(おくりな)だったと言えるでしょう。
古墳が語る真実 飯豊天皇陵
さて、文献を離れて、彼女の存在を今に伝える物理的な証拠、そのお墓を訪ねてみましょう。『日本書紀』は、飯豊天皇が葛城の「埴口丘陵(はにくちのおかのみささぎ)」に葬られたと記しています 。そして、この場所は現在、奈良県葛城市にある北花内大塚古墳(きたはないおおつかこふん)に比定され、宮内庁によって「飯豊天皇 埴口丘陵」として公式に管理されています 。
- 圧倒的なスケール: 古墳は全長約90メートルにも及ぶ前方後円墳。これは5世紀当時の支配者層の中でも、極めて高い地位の人物の墓であることを示しています 。
- 完璧な時代考証: 築造されたのは5世紀末から6世紀初頭と推定され、飯豊天皇が生きた時代と完全に一致します 。
- 葛城氏との繋がり: 古墳の所在地は、まさに古代の豪族・葛城氏の本拠地の中心です 。
文献が示す場所と名前、考古学が証明する年代と規模、そして現代の国家機関による公式な認定。これら全てが一致する北花内大塚古墳は、飯豊天皇が単なる伝説上の人物ではなく、君主として絶大な権力を持っていたことを示す、何より雄弁な物証なのです。

飯豊天皇陵(北花内大塚古墳)へのアクセス
古代の息吹を感じに、あなたも幻の女帝の陵を訪れてみませんか?
- 所在地: 奈良県葛城市北花内
- Googleマップ: https://www.google.com/maps?q=奈良県葛城市北花内
- 公共交通機関でのアクセス:
- 近鉄御所線「近鉄新庄駅」より徒歩約10分
- お車でのアクセス:
- 専用の駐車場はありません 。近隣のコインパーキングをご利用ください 。駐車場の数には限りがあるため、公共交通機関のご利用をおすすめします 。
歴史の狭間に生きた、最初の女帝
飯豊天皇は、忘れられた女帝ではありませんでした。彼女は、古代日本の政治体制が大きく変わる、まさにその過渡期を象徴する人物です。
有力豪族に支えられた皇族の女性が、国家の危機に際して実質的な君主として国を治める。それは、より流動的だった古い時代の王位継承の姿を今に伝えています。しかし同時に、彼女は厳格な男系継承を絶対とする新しい歴史観によって、公式の系譜からその名を外された最初の犠牲者の一人でもありました。
彼女の物語は、歴史的な事実と、後世に作られる「公式の記憶」との間に、いかに複雑なせめぎ合いがあるかを教えてくれます。歴史の表舞台から意図的に曖昧にされた、しかし決定的な役割を果たした一人の女性。それが飯豊天皇なのです。
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