【市辺古墳】悲劇の皇子と忠義の臣。5世紀の皇位継承争い

滋賀県
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滋賀県東近江市市辺町にひっそりと佇む、磐坂市辺押磐皇子御墓(いわさかのいちのべのおしはのみこのみはか)。通称、市辺古墳(いちのべこふん)です。

煌びやかな巨大前方後円墳とは異なり、静かな丘陵地に寄り添うように並ぶ二つの円墳。しかし、ここには日本の古代史において最も血なまぐさく、そして最も美しい「忠義と記憶の物語」が眠っています。

第21代雄略天皇の野望の陰で消された正統な皇位継承者。そして、その最期を共にし、死してなお主君を守り続ける従者。さらには、忘れ去られたその墓所を、数十年後に記憶の底から蘇らせた一人の老婆の物語。

5世紀のヤマト政権を揺るがした皇位継承危機と、時を超えた人間ドラマの現場へ、皆さんをご案内します。


歴史の闇に葬られた「正統なる皇位継承者」

まず、このお墓の主である磐坂市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)について紐解いていきましょう。

彼は、第17代履中天皇の皇子です。 履中天皇といえば、あの大仙陵古墳(仁徳天皇陵)で知られる仁徳天皇の第一皇子。つまり、市辺押磐皇子は、仁徳天皇の孫にあたり、血筋としてはこれ以上ないほど「正統な皇位継承権」を持っていました。

しかし、 5世紀中頃のヤマト政権は、まさに権力闘争の坩堝(るつぼ)でした。父・履中天皇の死後、皇位は兄弟継承で叔父たち(反正天皇、允恭天皇)へと移り、履中の直系である彼の立場は徐々に不安定なものとなっていきます。

そして、運命の歯車が狂い始めたのは、従兄弟にあたる第20代安康天皇の時代です。安康天皇は、皇統の正統性を戻すため、市辺押磐皇子に皇位を譲る意向を示しました。これが、ある一人の男の野心に火をつけてしまったのです。

その男の名は、大泊瀬皇子(おおはつせのみこ)。 後の第21代、雄略天皇です。

ワカタケル大王」として教科書にも登場する雄略天皇は、強力なリーダーシップを持つ英主であると同時に、自らの即位の邪魔になる親族を次々と粛清した、冷徹なリアリストでもありました。

蚊屋野の悲劇 狩猟という名の処刑

『古事記』や『日本書紀』は、その最期の瞬間を劇的に描いています。

ある日、大泊瀬皇子(雄略)は、市辺押磐皇子を狩猟に誘います。場所は近江国の「蚊屋野(かやの)」、あるいは「蒲生野(がもうの)」。現在の東近江市周辺です。 古代において狩猟は、単なる遊びではなく、王の統治能力を示す神聖な儀式(軍事演習)でもありました。市辺押磐皇子は、疑うことなくこの誘いに乗ってしまいます。

狩りの最中、イノシシが現れました。 「あれを射よ」 そう促された市辺押磐皇子が弓を構えたその時、大泊瀬皇子の矢はイノシシではなく、皇子に向けられました。

皇子は無惨にも射殺されました。さらに残酷なことに、その遺体は丁寧に葬られることなく、土中に埋められ、場所がわからないように隠蔽されてしまったのです。これは単なる暗殺ではなく、皇子の存在そのものを歴史から抹消しようとする行為でした。

もう一つの円墳 忠臣・佐伯部売輪の物語

市辺古墳を訪れると、東側の皇子の墓のすぐ隣、西側に少し小さな円墳があることに気づきます。 これが、「帳内佐伯部売輪墓(とねりさえきべのうるわのはか)」です。

帳内」とは、皇族の身辺警護や雑務を行う側近のこと。 伝承によれば、佐伯部売輪は、主君が凶刃に倒れた際、自らの身を挺して守ろうとした、あるいは主君の遺骸を抱きかかえて共に殺されたと伝えられています。

通常、従者の墓は「陪塚」として、主君の墓の付属品のように扱われることがほとんどです。しかし、宮内庁はこの西側の塚を、個人の名を冠した墓として治定しています。

死してなお、主君の隣に寄り添う従者。 この二つの並んだ円墳は、1500年の時を超えて、その強烈な忠義の物語を私たちに視覚的に訴えかけてきます。現地に立つと、ただの土の盛り上がりではない、静謐な気配を感じずにはいられません。

記憶の守り人 置目老媼(おきめのおみな)

市辺押磐皇子の死後、その遺児である億計王(おけおう)弘計王(をけおう)は、命からがら播磨国(兵庫県)へ逃亡し、身分を隠して羊飼い(馬飼い)として潜伏生活を送りました。

長い月日が流れ、雄略天皇が世を去った後、二人の皇子は劇的に発見され、弟の弘計王が第23代顕宗天皇として即位します。 即位した顕宗天皇が最初に行ったこと。それは、非業の死を遂げた父の名誉回復と、行方不明のままの遺骨を探し出すことでした。

しかし、広い近江の野原で、隠蔽された墓など見つかるはずもありません。 途方に暮れる天皇の前に現れたのが、一人の老婆でした。 彼女の名は「置目(おきめ)」。

彼女は、かつての悲劇を記憶していた地元の古老でした。 「私がご案内しましょう」 老いた彼女の記憶を頼りに発掘を進めると、ついに父・市辺押磐皇子の遺骨が発見されたのです。

遺骨の証明

しかし、ここで一つの問題が生じます。発見された骨が、本当に父・市辺押磐皇子のものであるか、どうやって証明するのでしょうか?

ここで『古事記』は、あるエピソードを伝えています。 実は、市辺押磐皇子は、その名の通り非常に特徴的な「歯(押歯=おしは)」をしていました。彼の歯は、八重歯のように押し合って生えており、一度見たら忘れられない形状だったといいます。

発掘された頭蓋骨を確認すると、その歯並びはまさしく伝承にある「押歯」そのものでした。 「これぞ父君の遺骨に間違いない!」 この瞬間、数十年前に断ち切られた皇統の絆が、物理的な証拠をもって再びつながったのです。


『古事記』には、父の骨を見つけた顕宗天皇が、置目老媼に感謝し、宮殿の近くに住まわせたエピソードが記されています。天皇は彼女がやってくるのが分かるように、扉に鈴(鐸=ぬて)を掛けました。

浅茅原 小谷を過ぎて 百伝ふ 鐸ゆらくも 置目来らしも

(浅茅が生い茂る原や小さな谷を越えて、鈴が鳴り響いている。ああ、置目がやって来るらしい。)

一国の王と、一介の老婆。 二人の間を結んだのは、亡き父への尽きせぬ想いと「記憶」でした。この伝承を知ってから現地を訪れると、風に揺れる草の音が、まるでその時の鈴の音のように聞こえてくるかもしれません。

江戸から明治へ 失われた墓の探求

中世の戦乱を経て、墓の正確な位置は再び不明確になっていました。 しかし、江戸時代に入り国学が盛んになると、「古保志塚(こぼしづか)」と呼ばれていたこの地こそが、あの悲劇の皇子の墓ではないかという説が浮上します。

特に熱心だったのが、幕末の国学者・長野主膳らです。彼らは『古事記』や『日本書紀』の記述と、現地の地名、地形を徹底的に照合し、ここが真の御陵であると論証しました。

そして明治8年(1875年)、政府により正式に「磐坂市辺押磐皇子墓」として治定され、現在に至ります。私たちが今、この場所を訪れることができるのは、数百年前の国学者たちの執念のおかげとも言えるでしょう。

アクセス・地図

史跡名称: 磐坂市辺押磐皇子御墓(いわさかのいちのべのおしはのみこのみはか)

住所: 滋賀県東近江市市辺町

公共交通機関でのアクセス
  • 最寄駅: 近江鉄道 八日市線「市辺(いちのべ)駅」
  • 徒歩: 駅より南東へ徒歩約17分~20分(約1.2km)
    • 駅を出て集落の中を通り、船岡山方面へ向かいます。道中、案内板もいくつか設置されていますが、Googleマップを併用することをお勧めします。
車でのアクセス
  • 最寄IC: 名神高速道路「八日市IC」より約15分
  • 駐車場: 専用の整備された大駐車場はありません。
Googleマップ

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