【宝来山古墳】主君と忠臣が並び眠る。垂仁天皇陵「菅原伏見東陵」

奈良県
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奈良市尼ヶ辻町、水鳥が遊ぶ広大な濠に囲まれた宝来山古墳(ほうらいさんこふん)。 宮内庁により第11代垂仁天皇陵「菅原伏見東陵」として治定されているこの古墳は、単なる「大きな天皇陵」ではありません。

考古学的な視点で見ると、ここはヤマト王権が奈良盆地(大和)から河内平野(大阪)へ拠点を移す直前に築かれた、ある種の到達点を示すモニュメントです。

今回の記事では、一般的な観光ガイドでは触れられない、墳丘の特殊な形状や出土埴輪の分析、そして陪塚に隠された「もう一つの天皇陵説」まで、調査報告書レベルの情報をわかりやすく解説します。


データで見る宝来山古墳 奈良盆地北部の盟主

まずは、その圧倒的なスケールと構造的特徴をデータから読み解きます。

宝来山古墳データ

  • 墳形: 前方後円墳
  • 全長: 現況約227m(築造時は約240mと推定)
  • 後円部径: 約123m
  • 前方部幅: 約118m
  • 築造時期: 4世紀後半〜5世紀初頭
  • 所属: 佐紀盾列古墳群(西群)

全長227メートルという規模は、全国でも第20位前後に位置しますが、奈良盆地北部(佐紀地域)においては最大級です。同時期の大王墓と比較しても、その威容は際立っています。

特筆すべき「バチ形」のプロポーション

宝来山古墳の最大の特徴は、その平面プランにあります。 前方部が三味線のバチのように極端に開く「バチ形」を呈しているのです。

  • 前期(3世紀〜): 奈良・桜井市の「箸墓古墳」などに代表される「柄鏡形(えかがみがた)」。前方部が細長く、バチ状の開きはまだ弱い。
  • 中期(5世紀〜): 大阪・堺市の「大仙陵古墳(仁徳天皇陵)」のような、均整の取れた鍵穴形。

宝来山古墳の「バチ形」は、この両者をつなぐ過渡期の形態です。ここから古墳築造技術は完成形へと向かい、舞台はいよいよ世界最大級の古墳が並ぶ「河内(古市・百舌鳥古墳群)」へと移っていきます。宝来山古墳は、「奈良時代(古相)の終わりの始まり」を告げる記念碑的建造物なのです。


出土埴輪が語る「真の築造年代」

宮内庁管理下にあるため本格的な発掘は行われていませんが、過去の補修工事や周辺調査で出土した「埴輪」が、正確な年代決定の鍵を握っています。

川西編年「Ⅱ期」の特徴

出土した円筒埴輪は、研究者・川西宏幸氏の編年におけるⅡ期の特徴を示しています。 具体的には、埴輪の表面に巻かれた突帯(とったい)が大きく突出し、その成形にロクロが使用され始めた段階です。また、表面に見られる「黒斑(こくはん)」は、野焼きに近い環境で焼成されたことを物語っています。

形象埴輪と「まつり」の変化

円筒埴輪だけでなく、家形、盾形、靫(ゆき:矢筒)形、蓋(きぬがさ)形といった形象埴輪も確認されています。 これらは、古墳の周囲に立て並べることで、聖域を邪悪なものから守り(辟邪)、被葬者の生前の権威を視覚化する役割を果たしました。 この「形象埴輪セット」の充実は、古墳時代中期における祭祀様式の確立を示す重要な証拠です。


「田道間守の島」はなぜ生まれたか? 〜周濠の変遷史〜

宝来山古墳を訪れると、その広大な周濠と、南東に浮かぶ小島(田道間守の墓)の美しさに目を奪われます。しかし、この風景は築造当時のものではありません。

築造当初は「盾形」の狭い濠

近年の研究では、築造当初の周濠はもっと幅が狭く、墳丘の形に沿った「盾形周濠」であったと推測されています。 現在の広大な水面(湛水周濠)は、中世以降、農業用水を確保するためにため池として拡張・改修された結果なのです。

伝説と地形の奇跡的な融合

では、あの「島」は何なのでしょうか? 地質学・考古学的な見解では、周濠を拡張する際、「元々あった外堤の一部を削り残した場所」である可能性が極めて高いとされています。

しかし、ここに歴史のロマンがあります。 後世の人々は、削り残された孤島を見て、「あそこには主君(垂仁天皇)を慕って殉死した忠臣・田道間守が眠っているに違いない」と考え、聖地として祀り上げたのです。 「土木工事の痕跡」が「伝説の舞台」へと昇華した稀有な例と言えるでしょう。現在ではお菓子の神様(菓祖神)として、多くの信仰を集めています。


陪塚「兵庫山古墳」の謎 本当の安康天皇陵か?

宝来山古墳の周囲には、「い号」から「へ号」まで複数の陪塚(ばいちょう:従者の墓や副葬品埋納坑)が存在します。中でも北東に位置する「い号陪塚・兵庫山古墳」は、直径40mを超える立派な円墳であり、陪塚としては異例の大きさです。

消えた天皇陵

実は、歴史地理学や文献史学の一部では、この兵庫山古墳こそが本来の「第20代安康天皇陵」ではないかという説が有力視されています。

現在、安康天皇陵として治定されている場所(宝来山古墳の西側)は、中世の土豪の居館跡である可能性が指摘されています。幕末の修陵事業の際、情報の混乱や考証の限界により、本来の場所とは異なる地が治定されてしまった可能性があるのです。 主君である垂仁天皇の側に、後世の天皇が寄り添うように眠っているとすれば、そこにはまた別の歴史ドラマが見えてきます。


歴史の転換点に立つ巨人

宝来山古墳(垂仁天皇陵)は、以下の3点において極めて重要な遺跡です。

  1. 政治的重心の移動 ヤマト王権が佐紀(奈良)で絶頂を迎え、河内(大阪)へ移動する直前の姿を留めている。
  2. 埴輪祭祀の確立 多様な形象埴輪が出土し、埴輪起源説話(『日本書紀』)の背景にある「祭祀の改革」を考古学的に裏付けている。
  3. 信仰の重層性 「田道間守の伝説」が地形の変化と結びつき、現代まで続く信仰の場となっている。

もし現地を訪れる際は、単に「大きな森」として見るのではなく、「ここから日本の中心が大阪へ動いていったのだ」というダイナミズムや、「削り残された島に伝説を見出した昔の人々の心」に思いを馳せてみてください。そこには、教科書以上の歴史体験が待っています。


【アクセス】

  • 名称: 宝来山古墳(垂仁天皇陵)
  • 所在地: 奈良県奈良市尼辻西町
  • グーグルマップの位置情報
  • アクセス: 近鉄橿原線「尼ヶ辻駅」徒歩5分
  • おすすめの季節: 橘(タチバナ)の実が色づく冬、または新緑の春。
  • 参考文献: 『宝来山古墳(垂仁天皇陵)に関する総合調査報告書』(2025年版)、ほか宮内庁書陵部紀要等を参照。

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