第9代開化天皇の皇子、日子坐王(ひこいますのみこ/ひこいますのおう)。 『日本書紀』では影が薄く、『古事記』では系譜の要として描かれるこの人物は、「ヤマト王権の最強の切り込み隊長」として知られています。
彼が対峙したのは、日本海側に巨大な勢力を誇った「丹波王国」。 そしてその王とされる、土蜘蛛「陸耳御笠(くがみみのみかさ)」です。
今回は、幻の史料『丹後国風土記残欠』に残された生々しい戦争の記録を紐解き、由良川流域に残る「血と鉄」の痕跡を辿る歴史旅へご案内します。
史料のミステリー なぜ「将軍」の名が違うのか?
まず、この丹波征服戦争における最大の謎、「誰が指揮官だったのか」という問題から入りましょう。ここには、当時の政治的な思惑が見え隠れします。
『日本書紀』の「丹波道主命」説
『日本書紀』の崇神天皇10年の条には、「四道将軍」の派遣が記されています。
- 北陸:大彦命
- 東海:武渟川別
- 西道:吉備津彦
- 丹波:丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)
ここでは、日子坐王の子である「丹波道主命」が派遣されたことになっています。日子坐王本人の影はありません。これは『日本書紀』が、国家の公式記録として「四道将軍」という整然とした統治システムを強調したかったためと考えられます。
『古事記』の「日子坐王」説
一方、『古事記』は簡潔かつ強烈です。
「日子坐王を旦波国(たんばのくに)に遣はして、玖賀耳御笠(くがみみのみかさ)を殺さしめたまひき」
ここでは父である日子坐王自身が、敵を「殺した」と記されています。
『丹後国風土記残欠』の生々しさ
そして、地元丹後地方に伝わったとされる『丹後国風土記残欠』(江戸時代の引用などで伝わる逸文)。ここには、日子坐王が由良川で土蜘蛛と激戦を繰り広げた詳細な記録が残っています。
【考察】 おそらく、史実は「日子坐王による荒々しい征服戦争」が先にあり、その後の統治実務を息子である丹波道主命が担ったのでしょう。 ヤマト王権(特に『日本書紀』編纂者)にとって、生々しい流血の記憶よりも、統治の正当性を示すことの方が重要でした。しかし、和珥(わに)氏や息長(おきなが)氏といった、日子坐王を祖とする氏族たちは、自らの始祖の武功として「土蜘蛛討伐」を語り継いだのです。
敵対者「陸耳御笠」とは何者か?──丹波王国の実像
日子坐王が討伐した「陸耳御笠(くがみみのみかさ)」。 彼は単なる「土蜘蛛(異形の怪物)」として片付けられる存在ではありません。その名と考古学的知見から、彼の正体に迫ります。

名前に秘められた意味
- 「陸(クガ)」: 「クガ」は陸地を意味します。丹後といえば海人族(アマ)のイメージが強いですが、彼は内陸部や山岳地帯を基盤とする勢力だったことを示唆しています。
- 「耳(ミミ)」: 『旧事本紀』などの古代系譜に見られる「陶津耳(すえつみみ)」のように、古代の首長層によく使われた尊称です。
- 「御笠(ミカサ)」: 「カサ」は笠、あるいは瘡(疫病)など多義的ですが、ここでは「権威ある被り物」あるいは山容(笠山)を象徴する、祭司王的な称号の可能性があります。
考古学が見る「丹波王国」
丹後地方(京都府北部)には、網野銚子山古墳(全長198m)や神明山古墳(全長190m)など、4世紀後半から5世紀にかけて築造された巨大前方後円墳が存在します。これらは、同時期のヤマト(奈良)の大王墓に匹敵する規模です。
つまり、日子坐王が派遣された時期(3世紀後半〜4世紀初頭と推定)の丹波には、ヤマト王権と対等に渡り合えるだけの経済力と軍事力を持った「王国」が存在したことは確実です。 その力の源泉は、日本海ルートを通じた大陸との交易、そして「鉄」でした。陸耳御笠は、この豊かな王国を守ろうとした最後の王だったのかもしれません。
由良川遡上作戦──地名に残る殲滅戦の記録
『丹後国風土記残欠』には、日子坐王の軍がどのように進軍したかが、地名起源説話として驚くほど詳細に記されています。 これは由良川(ゆらがわ)という大動脈を制圧する、極めて戦略的な軍事行動の記録です。
現在の地図と照らし合わせながら、その進軍ルートを追体験してみましょう。

1 鳴生(なりう)神威による威嚇
- 伝承: 王の軍が丹波と若狭の国境に至った時、山が鳴動し、光った。
- 解説: 軍事的な狼煙(のろし)か、あるいは大軍の行進による地響きを「神の威光」として表現したものでしょう。ここから侵攻が始まります。
2 川守(かわもり)補給線の遮断
- 現在の地名: 京都府福知山市大江町河守
- 伝承: 官軍が川を「楯」で守り、敵の渡河を阻止した。
- 戦略的意味: 由良川は丹波の内陸部へ通じる唯一のハイウェイです。ここを「楯」で封鎖したということは、陸耳御笠軍の水運(補給・退路)を完全に断ったことを意味します。
3 楯原(たてはら)前線基地の構築
- 伝承: 楯を並べて陣を敷いた場所。
- 解説: 本格的な野戦陣地の構築です。王権軍が圧倒的な物量と組織力で展開していた様子が目に浮かびます。
4 血原(ちわら)副将「匹女」の死
- 伝承: 土蜘蛛の副将である「匹女(ひきめ)」を討ち取り、その血が原を染めた。
- 考察: 「匹女」という名から、女性首長(巫女的な存在)であった可能性も指摘されています。古代の戦いにおいて、霊的な守護者である女性首長の殺害は、敵の戦意を喪失させる決定打でした。
5 石占(いしうら)呪術戦
- 伝承: 逃げた陸耳御笠の行方を、小石を拾って占った場所。
- 解説: 古代の戦争において「占い(太占・石占)」は重要な軍事技術です。敵の逃走ルートを呪術的に「探知」し、追い詰めていきます。
6 青葉山(あおばやま)最後の砦
- 場所: 京都府舞鶴市・福井県境
- 伝承: 陸耳御笠が最期に立てこもった拠点。
- 解説: 若狭富士と呼ばれる美しい山ですが、かつては血で血を洗う最終決戦の場でした。陸耳御笠はここで討たれたとも、あるいは洞窟(土蜘蛛の窟)に封じ込められたとも伝わります。
系譜の魔術──「和珥」と「息長」を結ぶ結節点
武力で丹波を制圧した後、日子坐王(およびヤマト王権)はどうしたのか? ここで重要になるのが「婚姻」です。
日子坐王の系譜図を見ると、彼が単なる将軍ではなく、王権の「血のネットワーク」を作るためのキーマンだったことが分かります。
母方「和珥(わに)氏」との結束
日子坐王の母は、奈良盆地北東部(現在の天理市)を拠点とする和珥氏の出身です。和珥氏は、東国や北陸へ抜ける交通の要衝を押さえる一族。日子坐王はこの和珥氏のバックアップを受けて、軍を展開しました。
妻「息長(おきなが)氏」との同盟
そして最も重要なのが、彼が「息長水依比売(おきながのみずよりひめ)」を妻としている点です。
- 息長氏の拠点: 近江(滋賀県)の琵琶湖東岸・北岸。
- 息長氏の正体: 琵琶湖の水運と、古代の製鉄・鍛冶技術を掌握していた氏族。
日子坐王は、丹波(日本海)と大和(奈良)をつなぐ中継地点である「近江」の有力者と婚姻を結ぶことで、「日本海〜琵琶湖〜大和」という鉄と物資の輸送ルートを完全に掌握したのです。
そして「神功皇后」へ
この、日子坐王と息長水依比売の間に生まれたのが、前述の丹波道主命(日本書紀での将軍)であり、その子孫から息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、すなわち神功皇后が生まれます。
神功皇后が「三韓征伐」を行えた背景には、祖父である日子坐王が切り開き、実家である息長氏が管理していた「日本海ルート」と「鉄の技術」があったからこそなのです。
日子坐王の足跡を巡る旅
最後に、この壮大な歴史ドラマを現地で感じるためのスポットをご紹介します。
青葉山と「土蜘蛛の窟」
陸耳御笠が立てこもったとされる青葉山。西峰には「土蜘蛛の窟」と呼ばれる洞窟の跡があり、今も畏怖の念を抱かせます。登山道からは若狭湾が一望でき、彼らが守りたかった海の豊かさを実感できます。
- 住所: 京都府舞鶴市・福井県高浜町
- グーグルマップの位置情報
- アクセス: JR松尾寺駅から登山口まで徒歩約40分。本格的な登山装備推奨。
伊波乃西神社(いわのにしじんじゃ)
ところ変わって岐阜県。日子坐王は晩年、美濃(岐阜)の開拓も行ったとされ、ここに眠っているという伝承があります。神社の裏手、清水山にある「日子坐命墓」は、古墳ではなく巨大な岩(磐座)です。 形式化された天皇陵とは違う、原始的で荒々しい巨石信仰の姿は、この王の本質を表しているようです。
- 住所: 岐阜県岐阜市岩田西
- グーグルマップの位置情報
- アクセス: 岐阜駅からバスで「岩田」下車。





コメント