京都府の北西端、日本海に通じるラグーン・久美浜湾。 かつて大陸や朝鮮半島、そして出雲と北陸を結ぶ「海の道」の要衝であったこの地には、太古の記憶を今に伝える一つの「谷」が存在します。
その名は「神谷(かみたに)」。文字通り、神が宿る谷です。
現在、この地には「神谷太刀宮(かみたにたちのみや)」と呼ばれる名社が鎮座していますが、歴史の深層を覗き込むと、その背後には「旗指(はたさし)神社」という、もう一つの古社の存在が浮かび上がってきます。
なぜ、ヤマト王権の将軍を祀る神社に、出雲神話の神々が鎮まっているのか?
今回は、丹後平定の英雄・丹波道主命の伝説と、その陰に見え隠れする古代出雲の影、そして太陽運行を観測したとされる巨石群の謎に迫ります。観光ガイドには載らない、久美浜の歴史の深淵へご案内しましょう。
「神谷」という聖域 奥と口の構造
久美浜湾に注ぐ久美谷川。その川が平野部へと出る出口に現在の市街地や「小谷(おだに)」地区があり、そこから川を遡った山間部に「神谷(かみたに)」地区があります。
日本の古い信仰の形に「神奈備(かんなび)」という概念があります。神が降臨する山(奥宮)と、人が祭祀を行う里(里宮)。 神谷と小谷の位置関係は、まさにこの古代祭祀の構造をそのまま現代に残しています。
- 神谷(山側・奥): かつて神谷神社(現・旗指神社)が鎮座していた「旧社地」。巨石信仰と出雲の神々が眠る場所。
- 小谷(海側・口): 現在の神谷太刀宮が鎮座する場所。ヤマトの将軍と宝剣を祀る、統合された祭祀の場。
隠された原点「旗指神社」と軍事の記憶
神谷地区の静寂の中に佇む「旗指神社」。 その特異な社名は、第10代崇神天皇の時代、四道将軍としてこの地に派遣された丹波道主命の伝承に由来します。
「旗指」とは何か

伝承によれば、丹波道主命がこの地を巡察した際、その先導役として軍旗を掲げた「旗手(旗指)」を務めた家臣がいました。 古代において「旗」は、単なる目印ではありません。それは神霊や天皇の霊威が宿る依代であり、それを掲げる者は神の先導者という祭祀的な役割も担っていました。
つまり、旗指神社という名は、ヤマト王権の勢力がこの「神谷」という聖域にまで及び、その支配の証として旗が立てられた歴史的記憶を刻んでいるのです。
祀られているのは「出雲の神」という謎
しかし、ここで一つの大きな謎に直面します。 「将軍の旗手」を祀る神社でありながら、その祭神は手摩乳(てなずち)・脚摩乳(あしなずち)とされているのです。
ご存知の方も多いでしょう。この二柱は、出雲神話のヤマタノオロチ退治において、クシナダヒメの父母神として登場する神様です。 ヤマトの将軍の伝承を持つ神社に、なぜ出雲の神が?
ここには、以下の二つの歴史的背景が推測されます。
- 出雲勢力の先行鎮座: 丹波道主命が来る以前、この地は強固な出雲文化圏の中にあり、土着の豪族が祖神として手摩乳・脚摩乳を祀っていた。
- 融合の政治学: 道主命は征服にあたり、現地の有力者を「旗指(家臣)」として取り込んだ。そして、彼らが信奉する神を排除するのではなく、ヤマトの信仰体系の中に組み込んだ。
旗指神社は、単なる末社ではありません。ここは、ヤマトの「武力」と出雲の「祈り」が接触し、やがて融合していった歴史の最前線だったのです。
歴史の「層」を可視化する場所
久美浜の神谷太刀宮と旗指神社。 この二つの社を巡ることは、単なる神社参拝ではありません。
- 縄文・弥生: 巨石による天体観測(自然崇拝)
- 古墳時代前期: 出雲系部族による地主神信仰(手摩乳・脚摩乳)
- 古墳時代中期~: ヤマト王権の進出と統合(丹波道主命・旗指)
- 中世~近世: 神仏習合と社殿建築の洗練(大社造)
この地は、日本人がどのように「カミ」を捉え、時代ごとの権力者がどのようにそれを上書きし、融合させてきたかを示す「歴史の地層」の断面図のような場所です。
アクセス
神谷太刀宮(神谷神社)
- 住所: 京都府京丹後市久美浜町1314
- 御祭神: 丹波道主命、八千矛神 ほか
- 見どころ: 丹後唯一の大社造本殿、府登録文化財の神門、旧久美浜県庁舎(参考館)
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旗指神社(旧社地・元宮)

- 住所: 京都府京丹後市久美浜町神谷(神谷太刀宮より南へ約2km、山間部)
- 御祭神: 手摩乳命、脚摩乳命
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