讃岐平野の中央部、高松市仏生山・浅野地区。 なだらかな田園風景の中に、ぽっかりと浮かぶ島のような小山があります。その名を「船岡山(ふなおかやま)」と言います。そして、その麓に静かに鎮座するのが「船山神社(ふなやまじんじゃ)」です。
一見すると、のどかな地域の氏神様に過ぎないように見えますが、ここは古代讃岐の歴史を語る上で、決して欠かすことのできない特異点です。
なぜなら、ここには以下の三つの異なる時代の「層」が、複雑に重なり合っているからです。
- 神話の層: 皇女・倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)の国見と水利開発の伝説。
- 考古学の層: 四国最古級の前方後円墳と、大和・吉備との政治的同盟を示す出土品。
- 民俗の層: 時代が合わない「石棺」を「神の船」と見立てた、人々の信仰の記憶。
今回は、この高松平野に眠る信仰と統治の重層構造を、文献史学と最新の考古学調査の両面から徹底的に掘り下げます。
船山神社 巨樹が守る「里宮」の静寂
高松市内から南へ車を走らせ、仏生山の古い町並みを抜けると、県道沿いに深い緑に包まれた船山神社の社叢が現れます。
樹齢1000年を超える「神木」の威容
境内に入ってまず圧倒されるのが、香川県の天然記念物に指定されている大楠(クスノキ)です。 根回り12.8メートル、幹囲約8メートル。地上3メートル付近で二幹に分かれていますが、その樹勢は極めて旺盛です。樹齢は1000年以上と推定されており、この地が中世、あるいはそれ以前から聖域として守られ続けてきたことを、無言のうちに物語っています。
祭神に見る「大和・吉備・讃岐」のトライアングル
現在の社殿は、後述する船岡山から神霊を移した「里宮」です。 ここで注目すべきは、その祭神の構成です。
- 主祭神:倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)
- 第7代孝霊天皇の皇女であり、三輪山伝説や卑弥呼との同一視説でも知られる巫女的な女性です。
- 配祀:彦五十狭芹彦命(ヒコイサセリヒコノミコト/吉備津彦命)
- 桃太郎伝説のモデルであり、吉備(岡山)を平定した武人です。百襲姫の弟にあたります。
この姉弟が並んで祀られていることは、古代において「大和王権」「吉備勢力」「讃岐勢力」が、瀬戸内海を挟んだ強固な政治的・軍事的同盟関係にあったことを示唆しています。特に船山神社の信仰体系は、讃岐国一宮である田村神社と同一のライン上にあり、古代高松平野の統治システムの中枢であったことがうかがえます。
「船」に乗ってきた開発の女神
「船山」「船岡山」という地名は、山の形が「伏せた船」に似ていることに由来すると言われていますが、伝承を紐解くと、より深い意味が見えてきます。

聖なるラインと「国見」
百襲姫は、讃岐東部の引田(東かがわ市)に上陸し、水主神社周辺で拠点を作った後、西へと移動してきました。 その旅路は、まさに「水稲耕作」と「鉄器文化」を普及させる開発の旅でした。
高松平野に到達した彼女は、この船岡山に登り、周囲を見渡して「此の地は讃岐の中央にして好き所(よきところ)なり」と称賛し、鎮座したと伝えられます。これは古代の統治者が行う「国見(くにみ)」という領有宣言の儀礼そのものです。彼女にとってこの山は、単なる滞在場所ではなく、平野全体を支配・管理するための戦略的拠点だったのです。
鬼退治と水利事業
また、百襲姫と吉備津彦命には、讃岐にはびこる「鬼」や「大魚」を退治したという伝承が付きまといます。これは、当時の瀬戸内海における制海権争いや、従わない在地勢力との武力衝突を暗喩していると考えられます。 さらに、船岡山の南にある「船岡池」は、姫が指導して掘削させたという伝説があります。池を掘った残土を積み上げて山(船岡山)を造ったという壮大な伝承さえありますが、地質学的には山は自然地形です。しかし、この伝説は、彼女が率いた集団が高度な土木技術(治水・灌漑)を持っており、それが地域住民に劇的な恩恵をもたらしたという「歴史的記憶」の反映と言えるでしょう。
船岡山1号墳の実像
長らく伝説の霧の中にあった船岡山ですが、2008年(平成20年)から2012年(平成24年)にかけて行われた高松市教育委員会と徳島文理大学による学術調査により、その真の姿が明らかになりました。

3世紀の前方後円墳
調査の結果、山頂部には全長約45メートルの前方後円墳(船岡山1号墳)が存在することが確定しました。 特筆すべきは、その築造時期が3世紀代(古墳時代前期前半)であるという点です。
これは、卑弥呼が活躍した時代と重なります。この時期、四国にはまだ前方後円墳は数えるほどしか存在しませんでした。 船岡山1号墳は、急峻な尾根を削り、石を積み上げる「積石(つみいし)」技法を用いて築かれています。積石塚は讃岐特有の墳墓形式ですが、そこに大和王権の象徴である「前方後円墳」の形を取り入れているのです。これは、被葬者が在地の強力な首長でありながら、中央政権といち早く手を結んでいたことを雄弁に物語っています。
「船岡山型埴輪」の発見
さらに、この古墳の重要性を決定づけたのが、出土した埴輪です。 これらは「船岡山型埴輪」と呼ばれる特殊なもので、筒形の器台の上に壺を乗せたような古式の形態をしています。透かし孔には巴形や三角形が施され、表面には赤色顔料(水銀朱など)が塗布されていました。
これらの埴輪は、高松市の茶臼山古墳(前期の大首長墓)出土のものよりも型式的に古く、四国における古墳祭祀の導入過程を知る上で、極めて貴重な資料となっています。 百襲姫の伝説が残る場所に、まさにその時代の、地域最高ランクの墓が存在した。神話と考古学が見事にリンクした瞬間です。
「石の船」のパラドックス
しかし、ここで一つの大きな謎が立ちはだかります。 船山神社の名前の由来ともなり、かつて船岡池のほとりにあった巨大な「石舟(船岡の石棺)」の存在です。
時代が合わない遺物
現在、高松市国分寺町の石船天満宮に移設されているこの石棺は、地元産の鷲ノ山石(角閃安山岩)をくり抜いて作られた立派な舟形石棺です。古くから、土地の人々はこれを「百襲姫が乗ってきた船が石になったもの」あるいは「姫の棺」だと信じてきました。
ところが、考古学的な分析によると、この石棺が作られたのは4世紀中頃(古墳時代前期後半)なのです。 船岡山1号墳の築造(3世紀)とは、約50年から100年のタイムラグがあります。(卑弥呼の後継者・台与の可能性も)
つまり、この石棺は、百襲姫の時代の1号墳に納められていたものではない可能性が極めて高いのです。
「見立て」が生んだ聖地
では、なぜこのような矛盾が起きたのでしょうか。 推測されるシナリオはこうです。かつて船岡山には、1号墳に続いて築造された別の古墳(4世紀のもの)があり、後世にそこから石棺が露出した。あるいは、近隣の古墳から石材として持ち出され、池の改修工事に使われた。
当時の人々は、池のほとりで見つかったこの巨大な「船のような石」を見て、直感的に結びつけたのでしょう。 「これは、我々に水を授けてくださった神(百襲姫)の船に違いない」と。
考古学的には「誤解」かもしれません。しかし、この「見立て」こそが、山を「船山」と呼び、神社を建て、1000年以上にわたって信仰を守り続ける強固な動機となりました。 真実よりも強い「物語」の力が、ここにはあります。
結論とアクセス情報
船山神社と船岡山は、単なる史跡ではありません。 そこは、3世紀の王権の野望、高度な土木技術による平野の開発、そしてそれらを神話として語り継いだ人々の精神性が、地層のように積み重なった「歴史の多重露光地帯」なのです。
樹齢1000年の大楠の下で風に吹かれながら、遥か古代、この丘の上から讃岐平野を見下ろした女王の視線を追体験してみてはいかがでしょうか。
アクセス・データ
【船山神社(里宮)】
- 住所: 香川県高松市仏生山町甲1147
- 交通:
- 琴電琴平線「空港通り駅」より徒歩約10分。
- 高松自動車道「高松中央IC」より車で約15分。
- 駐車場: 境内に駐車スペースあり。
- 御祭神: 倭迹迹日百襲姫命、彦五十狭芹彦命 他三柱
- 文化財: 船山神社の大クス(県指定天然記念物)
【船岡山(1号墳・元宮跡)】
- 住所: 香川県高松市香川町浅野(神社の南約700m)
- 備考: 船岡池の北側に位置する丘陵。私有地や雑木林が含まれるため、散策の際は足元に注意し、現地のマナーを守ってください。
【船岡の石棺(移設先)】
- 場所: 石船天満宮(香川県高松市国分寺町、国分寺北部小学校近く)
- 備考: 船山神社からは離れていますが、伝説の「石の船」実見には移動が必要です。




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