兵庫県西脇市ののどかな田園地帯に、かつて数百年もの間、歴史の表舞台から姿を消していた古社があります。その名は「天目一神社(あまのまひとつじんじゃ)」。
『延喜式神名帳』や『播磨国風土記』にも名を連ねる名社でありながら、戦国の兵火によって焼失し、一時はその所在地さえ分からなくなっていた幻の神社です。
主祭神は、一つ目の神様「天目一箇神(あめのまひとつのかみ)」。 なぜ神様は「片目」なのか? そして、どのようにして現代に蘇ったのか?
今回は、古代の製鉄技術と妖怪伝承、そして地域の執念が織りなす、この「鉄と風の神」の物語を紐解きます。
「天目一箇神」とは? なぜ神は「片目」なのか
まずは、一度聞いたら忘れられないその社名と御祭神についてです。「天目一箇神(あめのまひとつのかみ)」という名は、文字通り「目が一つ」であることを示しています。
この神の特異な姿は、単なる異形ではなく、古代日本のハイテク産業であった製鉄・鍛冶技術のリアルな現場と深く結びついています。

古代の技術者「鍛冶師」の職業病説
民俗学における定説では、この「片目」は鍛冶師の職業病が神格化されたものと考えられています。
古代の刀匠や製鉄技術者たちは、炉の中で燃え盛る炎の色を長時間凝視し、鉄の温度や状態を一瞬で見極める必要がありました。強烈な熱と光を片目をつぶって見続けた結果、片目が潰れてしまう(失明する)、あるいは片目を常に閉じる癖がついたと言われています。 つまり、「片目」とは異形の証ではなく、「高度な技術を持った熟練職人」の勲章であり、その姿が神格化されたのです。
『古語拾遺』に見る「道具の創造神」
『日本書紀』や『古事記』だけでなく、平安時代の資料『古語拾遺』には、天目一箇神の役割がより具体的に記されています。 天照大御神が岩戸に隠れた際、この神は以下のものを作ったとされます。
- 刀斧(たちおの): 武器や工具
- 鉄鐸(さなき): 祭祀用の鉄の鈴
このように、天目一箇神は単なる「鉄の神」ではなく、「祭祀具と武具を生み出す創造者」として、忌部氏らと共に朝廷の重要儀式を支える存在でした。
妖怪「一本だたら」との意外な関係
歴史ファン、民俗学ファンにとってさらに興味深いのが、妖怪との関連です。 日本各地の鉱山や山岳地帯に伝わる妖怪「一本だたら(一本足で片目の妖怪)」をご存知でしょうか? 実は、この妖怪の正体こそが、零落(れいらく)した天目一箇神であるという説が柳田國男をはじめとする民俗学者によって指摘されています。
- 一本足の理由: 鞴(ふいご)を踏むために片足ばかりを酷使する鍛冶師の姿、あるいは山の神の使いとしての姿。
- 片目の理由: 前述の通り、鍛冶師の職業的特徴。
神として祀られれば「天目一箇神」、山野に零落すれば妖怪「一本だたら」。この神は、日本の山岳信仰と製鉄文化の境界線に立つ、非常に奥深い存在なのです。
播磨の重要拠点から「幻の社」へ 戦火と空白の340年
天目一神社がたどった運命は、日本の歴史の激動そのものです。なぜ、これほどの格式を持つ神社が、数百年もの間、行方知れずになってしまったのでしょうか。

『播磨国風土記』が語る栄華
天目一神社の歴史は古く、今から約1300年前に編纂された『播磨国風土記』の「託賀郡(たかのこおり)」の条にその名が登場します。 古代の播磨国は、鉄資源や木材が豊富な地域であり、大和朝廷にとっても重要な「生産拠点」でした。この地に天目一箇神が祀られていたということは、8世紀初頭には既に、朝廷直属レベルの高度な製鉄技術者集団がこの地域に定住していたことを意味します。
天正8年、三木合戦の悲劇
平安時代には『延喜式神名帳』に記載され、名実ともに最高ランクの神社「式内社」となった天目一神社。しかし、戦国時代の動乱がその運命を断ち切ります。
運命の年は、天正8年(1580年)。 織田信長の命を受けた羽柴秀吉(豊臣秀吉)による「播磨平定戦」の最終局面です。特に「三木合戦」として知られる別所氏との攻防の中で、周辺地域には激しい兵火が及びました。
この際、天目一神社の社殿は炎上。さらに痛恨だったのは、神社の由緒を記した古文書や宝物がすべて灰になってしまったことです。建物だけでなく「記録」を失ったことで、神社の正確な位置情報は歴史の闇に葬られました。
「論社」としての340年と、明治の執念
江戸時代を通じて、天目一神社は「所在不明」の状態が続きます。「かつてこの辺りに偉大な神様がいたはずだ」という伝承だけが残り、どこがその場所なのか誰にも断定できない「論社」と呼ばれる状態が続きました。
- 空白の期間: 天正8年(1580年)の焼失から、大正12年(1923年)の再建まで、約340年。
この長い沈黙を破ったのが、明治時代の学者と地元の人々の執念です。 「式内社を復興せよ」という機運の中、古い地誌や伝承を徹底的に検証。現在の西脇市大木町にあった「惣堂天王社」の境内に、古代の礎石と「天目一社」と呼ばれていた小さな祠の痕跡を発見し、こここそが旧跡であると比定(特定)されたのです。
復活の象徴「神明造」と、風を呼ぶ「ふいご祭り」

340年の時を経て蘇った天目一神社。その「姿(建築)」と「営み(祭り)」には、再建にかけた人々の想いと、製鉄の神ならではの特殊な信仰が刻まれています。
なぜ「神明造」なのか?
大正12年に完成した現在の本殿は、伊勢神宮と同じ「神明造(しんめいづくり)」という建築様式です。 播磨地域の神社の多くは曲線的な屋根を持つ「流造(ながれづくり)」が一般的ですが、あえて直線的で古代的な「神明造」が採用されました。
これには、「延喜式神名帳に載る由緒ある神社として、日本最古の正統な様式で復興させたい」という、当時の人々の強い意思と誇りが込められています。
12月の奇祭「ふいご祭り」と風の伝承
天目一神社のアイデンティティが最も色濃く出るのが、毎年12月第1日曜日に行われる「ふいご祭り」です。 「ふいご(鞴)」とは、製鉄の炉に空気を送り込み、火力を上げるための送風装置。鍛冶師にとっては命の次に大事な道具です。
- プロフェッショナルの巡礼: 祭りの日には、地元だけでなく、遠方(丹波、但馬、大阪など)からも鍛冶職人や金属加工業者が参拝に訪れます。
- 「風」の吉兆: 非常に興味深い俗信があります。「祭りの日に強い風(木枯らし)が吹くと吉兆である」というのです。
- 「風が吹く=神様がふいごを強く吹いている=火の勢いが増す」と解釈されます。
- 一つ目の神は、「火の神」であると同時に、火を操るための「風の神」でもあったのです。
天目一神社へのアクセス・基本情報
天目一神社は、観光地化された場所ではなく、静かな田園地帯に鎮座しています。歴史旅をスムーズに楽しむための情報をご紹介します。
基本情報
- 名称: 天目一神社
- 住所: 兵庫県西脇市大木町648
- Googleマップ: 地図を見る
アクセスの注意点
地図上ではJR加古川線「黒田庄駅」が近く見えますが、ここは要注意ポイントです。
- × 黒田庄駅から徒歩: 直線距離は近いですが、道のりは約3.7kmあり、徒歩だと1時間半近くかかります。タクシーも常駐していません。
- ○ おすすめルート:
- 自家用車: これが最も確実です。神社の鳥居前に駐車場があります。
- バス: JR「西脇市駅」からウイング神姫バス(山寄上方面行き)に乗り、「大木町」バス停で下車。そこから徒歩ですぐです。(※バスの本数は少ないため、事前に時刻表をご確認ください)
消えない「火」を護り続ける聖地
一度は戦火で焼失し、340年もの間、地図から消えていた天目一神社。 しかし、人々の記憶から「一つ目の神様」が消えることはありませんでした。
片目で火を見つめ続けた古代の鍛冶師たちの魂は、明治・大正の人々の熱意によって神明造の社殿へと還り、今も「ふいご祭り」の風となってこの地を吹き抜けています。




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