三重県伊賀市、南宮山の北麓に静寂を湛えて鎮座する「敢國神社(あえくにじんじゃ)」。
伊賀国一之宮である敢國神社は、単なる地域の崇敬社ではありません。ここは、古代の有力豪族「阿閉氏(あべし)」の本拠地であり、ヤマト王権が北陸・東海地方へと覇権を広げるための軍事的・政治的な重要拠点でした。
今回は、この古社を舞台に、王権の拡大を支えた将軍「大彦命(おおひこのみこと)」の足跡と、古代豪族の興亡、そして中世から近世へと続く伊賀を紐解く旅へとご案内します。
「敢國(あえくに)」の謎 古代地名が語る阿閉氏の勢力圏
神社の名前である「敢國(あえくに)」。かつてこの地が「阿拝郡(あえのこおり)」と呼ばれていたことに由来します。そして、その地名は、この地域を拠点とした古代豪族「阿閉氏(あべし/あへし)」の存在を抜きにしては語れません。

阿閉氏とは何者か
阿閉氏は、「阿閉臣(あべのおみ)」という姓(かばね)を持つ有力豪族です。『古事記』や『日本書紀』の系譜によれば、彼らは第8代孝元天皇の皇子である「大彦命」を始祖としています。 「アベ」という響きを持つ氏族は、阿倍氏、安部氏など全国に見られますが、伊賀の阿閉氏は、膳氏(かしわでし)などとともに、大彦命の直系としてヤマト王権の中枢に近い位置にありました。彼らは、王権の「トモ(伴)」として職能奉仕を行う立場にあり、やがて国郡制が整備される中で、伊賀国阿拝郡を本拠地とする支配者としての地位を確立していきました。
一之宮としての「敢國」
平安時代に編纂された『延喜式神名帳』(927年)において、敢國神社は伊賀国阿拝郡の「大社」として記載され、名神大社(みょうじんたいしゃ)に列せられています。 当初の祭神は「敢国津神(あえくにつかみ)」と記述されており、これは阿閉氏の氏神、あるいはこの「敢の国(阿拝郡)」一帯の地主神としての性格が強かったと考えられています。
四道将軍・大彦命 ヤマト王権の東国平定プロジェクト
現在、敢國神社の主祭神として祀られているのは、阿閉氏の始祖とされる「大彦命(おおひこのみこと)」です。

四道将軍の派遣
『日本書紀』崇神天皇10年の条には、天皇が「四道将軍」を各地に派遣したことが記されています。
- 北陸道:大彦命(おおひこのみこと)
- 東海道:武渟川別(たけぬなかわわけ・大彦命の子)
- 西道(山陽):吉備津彦命(きびつひこのみこと)
- 丹波道(山陰):丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)
この記述は、初期ヤマト王権が畿内から四方へと勢力を拡大し、各地の在地勢力を平定・統合していった歴史的事実を反映していると考えられています。 ここで注目すべきは、大彦命が「北陸道」へ派遣されたという点です。大和(奈良盆地)から北陸へ向かうルートにおいて、伊賀は近江(滋賀)や伊勢、東国へと通じる交通の要衝です。大彦命は、未開の地であった北陸・東国を教化・平定する過程で、この伊賀の地を戦略的な拠点とし、その後、彼の一族がここに定住したと伝えられています。
ヤマト王権の「東の守り」
大彦命の事績で興味深いのは、彼が単に武力で制圧しただけでなく、王権の威信を背景とした「まつりごと(祭政)」によって地域を統合したとされる点です。 伊賀に根を下ろした阿閉氏は、大彦命の「北陸平定」という武勲と正統性を背景に、伊賀国造(いがのくにのみやつこ)としての地位を固めました。敢國神社に大彦命が祀られている事実は、伊賀という土地が、ヤマト王権にとって「東国や北陸へのゲートウェイ」として極めて重要視されていたことを物語っています。神社の鎮座地が、大和から東国へ抜ける古代の幹線道路沿いにあることも、その軍事的・交通的意義を裏付けています。
御墓山古墳 考古学が証明する「阿閉氏」の強大な権力
敢國神社の周辺には、阿閉氏の強大な権力を証明する巨大な考古学的遺物が存在します。それが、神社の北約1キロメートルに位置する「御墓山古墳(おはかやまこふん)」です。

全長188メートルの巨大前方後円墳
御墓山古墳は、5世紀頃に築造されたと推定される前方後円墳で、その全長は188メートルに及びます。これは伊賀地方はもちろん、三重県下においても最大の規模を誇ります。 5世紀といえば、ヤマト王権が河内平野に巨大古墳(大仙陵古墳など)を築造し、強力な王権を確立していた時期(いわゆる「倭の五王」の時代)です。この時期に、大和盆地から離れた伊賀の地に、これほど巨大な古墳を築くことができた人物とは誰か。それは、ヤマト王権と密接な関係を持ち、この地域を一元的に支配していた「阿閉氏」の首長以外には考えられません。
伝承と実在の合致
地元では古くから、この御墓山古墳こそが「大彦命の墓」であると伝承されてきました。 考古学的な年代観(5世紀)と、記紀神話における大彦命の活動時期(崇神朝=考古学的には3〜4世紀頃とされることが多い)には若干のズレがあるため、被葬者が大彦命本人であると断定することは学術的には慎重さを要します。しかし、被葬者が大彦命の系譜に連なる阿閉氏の有力首長であったことはほぼ確実視されています。
祭神の変遷と神仏習合 南宮山信仰と渡来系技術の影
敢國神社の歴史は長く、その祭神や信仰の形も時代とともに複雑な変遷を遂げてきました。現在の主祭神は大彦命ですが、配祀されている神々や境内社にも、伊賀の歴史的特性が色濃く反映されています。
少彦名命と渡来系氏族・秦氏
配祀神の一柱である「少彦名命(すくなひこなのみこと)」は、国造りの協力神であり、医薬や酒造、温泉の神として知られます。 平安時代末期の歌謡集『梁塵秘抄』には「伊賀国にはおさなきちごの宮」という記述があり、これが少彦名命(小人の神とされる)を指していると考えられています。興味深いのは、この神の祭祀に、古代の有力な渡来系氏族である「秦氏(はたし)」が関わっていたという伝承がある点です。 秦氏は養蚕、機織り、酒造、治水など、当時の最先端技術を持った集団でした。伊賀地方においても、彼らが開発に関与し、その守護神として少彦名命を祀った可能性があります。これは、伊賀が単なる軍事拠点だけでなく、古代の産業開発の現場でもあったことを示唆しています。
金山比咩命と金属製錬
もう一柱の配祀神、「金山比咩命(かなやまひめのみこと)」は、鉱山や金属の神です。 敢國神社の背後に聳える南宮山(標高359メートル)は、古くからの神奈備(神体山)ですが、中世に入ると美濃国一宮である南宮大社から金山比咩命が勧請され、山頂に祀られました。 「南宮」という名は、金属(特に鉄)に関わる信仰と深く結びついています。伊賀の山間部には古代から中世にかけて、修験者や山岳民が入り込み、鉱物資源の探索や製錬が行われていた痕跡があります。敢國神社がこの神を祀っている事実は、この地における製鉄や冶金技術者集団(タタラ師など)の存在、あるいは彼らを統括する役割を神社が担っていた可能性を想起させます。
天正伊賀の乱から藤堂高虎による再建へ
古代の栄華を誇った敢國神社も、中世の戦乱の中で大きな試練を迎えました。特に戦国時代末期、織田信長による伊賀侵攻、いわゆる「天正伊賀の乱(1581年)」です。
焦土からの再生
この戦いにより、伊賀全土は焦土と化し、敢國神社の社殿も兵火によって焼失しました。古代から続いた記録や宝物の多くが失われ、一時は衰退を余儀なくされました。 しかし、江戸時代に入り、この神社の運命は再び大きく動き出します。その立役者となったのが、築城の名手として知られ、伊賀・伊勢の領主となった「藤堂高虎」です。
藤堂高虎の崇敬と鬼門封じ
高虎は、自身が大規模な改修を行った伊賀上野城の「鬼門(北東)」にあたる敢國神社を、城の守護神、そして領国鎮護の要として極めて重要視しました。 彼は社領を寄進し、慶長年間には社殿の大規模な再建・整備に着手します。現在の拝殿や本殿の基礎となる配置は、この時期に整えられたものです。高虎以降の藤堂歴代藩主も代々参拝を欠かさず、社殿の修造を行い、敢國神社は「伊賀国一之宮」としての威容を取り戻しました。
神事芸能としての獅子神楽 伊賀文化の原風景
敢國神社の文化的価値を語る上で、無形民俗文化財である「獅子神楽(ししかぐら)」を見落とすことはできません。
伊賀神楽の原型
伊賀地方には多くの獅子神楽が伝承されていますが、敢國神社の獅子神楽はその「原型」とも言える地位にあります。これもまた、藤堂高虎の時代に端を発します。 伝承によれば、高虎が一之宮の神幸式(お渡り)に獅子神楽を加えるよう命じ、正月の祝儀として上野城内で舞わせたことが、この芸能の発展の契機となりました。
敢國神社(あえくにじんじゃ) 参拝データ

- 所在地:三重県伊賀市一之宮877
- グーグルマップの位置情報
- アクセス:
- 【車】名阪国道(国道25号)「伊賀一之宮IC」より約5分(無料駐車場あり)
- 【公共交通機関】伊賀鉄道「上野市駅」より三重交通バス(阿山支所前行き等)にて「敢国神社前」下車すぐ





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