【那須国造碑・笠石神社】なぜ唐の年号が? 国宝「那須国造碑」1300年の謎 飛鳥時代の政治革命を刻む石文

栃木県
この記事は約7分で読めます。

栃木県大田原市に一枚の石碑があります。

その名は「那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)」。

700年(飛鳥時代)に建立されたこの石碑は、地方の小さな神社の御神体です。しかし、その152文字の碑文には、古代日本の政治革命の瞬間徳川光圀(水戸黄門)による日本初の学術調査のきっかけ、そして東アジアの国際的な文化交流という、三重の壮大な歴史が封じ込められています。

この記事では、国宝にも指定されている「那須国造碑」の謎と魅力を、歴史的背景から現地のアクセス情報まで、徹底的に解説します。

那須国造碑とは? 基本情報

まずは、この石碑が「何者」であるか、基本情報を押さえましょう。

  • 名称: 那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)
  • 場所: 栃木県大田原市湯津上 笠石神社(かさいしじんじゃ)
  • 建立: 西暦700年
  • 指定: 国宝
  • 概要: 飛鳥時代、地方豪族の那須直韋提(なすのあたいいで)の死を悼み、その子・意斯麻呂(おしまろ)らが建立した墓碑
  • 特徴: 群馬県の多胡碑、宮城県の多賀城碑とともに「日本三古碑」の一つに数えられます

152文字の碑文が語る飛鳥時代の政治

那須国造碑がなぜ重要なのか。その秘密は、冒頭の数行にあります。

(碑文の大意)

永昌元年(689年)4月、飛鳥浄御原の大宮(朝廷)から、那須国造であった那須直韋提が、評督(ひょうとく)に任命された。」

「その後、庚子年(700年)に韋提が亡くなった。そこで、意斯麻呂(おしまろ)らがこの碑を建立する。」

注目すべきは、「国造(くにのみやつこ)」と「評督(ひょうとく)」という二つの異なる役職が一人の人物に与えられた点です。

  • 国造: 大化の改新(645年)以前の、ヤマト王権から認められた世襲制の地方豪族(地域の王様)。
  • 評督: 大化の改新以降、中央集権的な律令国家が整備される過程で新設された、中央から任命される地方長官(後の「郡司」に近い官僚)。

那須直韋提は、「那須の王様(国造)」という古い権威を持ったまま、中央政府の「官僚(評督)」という新しい地位に任命されたのです。

これは、645年の大化の改新から始まった中央集権化(律令国家の形成)という一大政治革命が、都から遠く離れた那須の地で、どのように実行されたかを示す証拠です。中央政府は、地方の有力者を武力で排除するのではなく、彼らを新しい官僚システムに「再編・包摂」することで、支配を確立しようとしました。

律令制以前の地方行政単位は?

」という一文字は、戦後の日本古代史学における最大の論争の一つ「郡評論争(ぐんぴょうろんそう)」に決定的な証拠を提供しました。『日本書紀』など8世紀に成立した歴史書では、この時代も「郡」と表記されていたため、律令制以前の地方行政単位が「評」だったのか「郡」だったのか、長年議論が分かれていたのです。

しかし、那須国造碑(700年)や他の木簡・金石文で「評」の文字が発見されたことにより、「701年の大宝律令 の施行を機に、全国一斉に『評』から『郡』へと呼称が変更・統一された」という事実がほぼ確実となりました。那須国造碑は、まさにその「評」の時代が終わり、「郡」の時代が始まる直前の、過渡期の行政制度を証明する第一級の物証なのです。

那須国造碑は、古い地方分権の時代が終わり、新しい中央集権の時代が始まる、まさにその劇的な移行の瞬間を刻み込んだ「政治革命の証書」なのです。

美術品としての価値 日本書道史上の傑作

那須国造碑は、歴史的史料としてだけでなく、書道史における美術品としても極めて高く評価されています。

日本三古碑と六朝風(北魏風)の書

本碑は「日本三古碑」の一つに数えられますが、これは「日本書道史上重要な3つの石碑」という側面も持ちます。昭和27年に国宝に指定された理由の一つも、この「字体が高く評価された」ことにあります。

力強い大陸様式

碑文の書体は、中国の南北朝時代(六朝時代)、特に北魏の石碑に見られる、力強く雄渾な楷書体(「六朝風(りくちょうふう)」または「北魏風(ほくぎふう)」)の特徴を明確に示しています。

この書風は、例えば龍門造像記(りゅうもんぞうぞうき)などに代表されるように、角張った運筆(方筆)と、やや無骨ながらも力感あふれる字形が特徴です。

700年という飛鳥時代に、都(飛鳥)から遠く離れた那須の地で、これほど洗練された最新の大陸様式が用いられている事実は驚くべきことです。これは、碑の建立に高度な知識を持つ専門家(後述する渡来人など)が関与したことを強く示唆しています。

笠石神社で実物を拝観した人からは、「拓本や写真で見るよりも国宝の石碑の碑文の書体のすばらしさをぜひ見てもらいたい」との声も聞かれるほど、そのオーラは格別です。

なぜ唐の年号が? 新羅の渡来人が関与か

この碑文には、もう一つ大きな謎があります。

碑文の冒頭、「永昌(えいしょう)元年」という年号です。

永昌元年(689年)は、日本では持統天皇3年にあたります。しかし碑文は、日本の年号ではなく、中国・唐(当時の則天武后)の年号を使っています。なぜでしょうか。

さらに、碑文の後半は中国の古典(『論語』など)を巧みに引用した高度な漢文で構成されています。

前述した高度な「六朝風の書」と、この「唐の年号」、そして「高度な漢文」という3つの要素から、この碑の建立には、高度な大陸文化を身につけた渡来人(とくに新羅系)の知識人グループが深く関わったと考えられています。『日本書紀』には、同時期に新羅人を下野国(栃木県)に移住させた記録もあり、那須氏という在地豪族と、新羅系の渡来人エリートが協力して、この記念碑を建立した姿が浮かび上がります。

永昌」という国際的な年号の使用は、彼ら渡来人にとっては自然なことであり、また、7世紀末の日本(倭国)が唐を中心とする東アジアの国際秩序と無縁ではなかったことを示す、証拠でもあります。

水戸黄門(徳川光圀)と日本初の学術的発掘調査

那須国造碑は、建立から数百年後、一度は忘れ去られ、草むらに倒れていました。

この碑に「第二の人生」を与えたのが、あの徳川光圀(水戸黄門)です。

  1. 再発見: 延宝4年(1676年)、旅の僧・円順が碑を発見。
  2. 光圀の知るところに: 貞享4年(1687年)、『大日本史』編纂中であった光圀に報告が届きます。
  3. 碑堂の建立: 光圀はこの碑の歴史的価値を瞬時に見抜き、保存のために立派な碑堂(お堂)を建てるよう命じました(元禄5年、1692年完成)。

しかし、光圀の情熱はそれだけでは終わりませんでした。彼は碑文を読み解き「この碑に祀られている那須直韋提の墓が、近くにあるはずだ」と考えます。

そして彼は、近隣の二つの巨大古墳(上侍塚古墳・下侍塚古墳)の発掘調査を命じました。これは元禄5年(1692年)のことです。

この調査こそが、「碑文(史料)の記述を、出土品(モノ)によって実証する」という明確な目的意識を持って行われた、日本史上初の「学術的発掘調査」であると高く評価されています。

残念ながら、古墳の築造年代は碑の時代(700年頃)より古く、韋提の墓である証拠は見つかりませんでした(出土品は銅鏡、鉄製の武器、土器などでした)。しかし、この「問い」を立てて実証しようとしたプロセスそのものが、近代考古学の先駆けとなったのです。

那須国造碑は、古代史の史料であると同時に、近世日本の「科学の精神」を呼び覚ました、日本考古学発祥の地でもあるのです。

那須国造碑(笠石神社)へのアクセス

この歴史的な石碑は、今も「笠石神社」の御神体として、大切に祀られています。

基本情報

  • 所在地: 栃木県大田原市湯津上429 笠石神社
  • 拝観料: 500円(宮司さんの時間があれば説明していただけます)
  • 注意事項: 碑は国宝であり御神体です。写真撮影は厳禁とされています。

車でのアクセス

  • 高速道路: 東北自動車道「矢板IC」または「西那須野IC」から約30分。
  • 駐車場: 神社に無料駐車場があります(約14台)。

公共交通機関でのアクセス

最寄り駅はJR宇都宮線の「那須塩原駅」です。

  • JR那須塩原駅(西口)からバス
    • 複数の資料 に基づくと、大田原市営バスの利用が基本となります。

レプリカと関連資料館

国宝の「本物」は笠石神社にありますが、風雨から守るためお堂の中にあり、じっくりと観察するのは難しいかもしれません。

そこでおすすめなのが、神社のすぐ近くにある「大田原市なす風土記の丘湯津上資料館」です。

ここには、那須国造碑の精巧な原寸大レプリカが常設展示されており、碑文の文字や石の質感を明るい場所で間近に確認できます。また、水戸光圀による侍塚古墳の発掘調査の業績や、周辺の出土品なども展示されており、訪問の際にはぜひセットで立ち寄りたいスポットです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました