鳥取県ののどかな田園風景の中に、時を超えて語り継がれる壮大な物語の舞台があります。その名は賣沼神社(めぬまじんじゃ)。ここは、日本最古の歴史書『古事記』に記された、あまりにも有名な神話「因幡の白兎」のヒロイン、絶世の美女神・八上比売(やかみひめ)を主祭神として祀る、全国的にも珍しい神社です。
大国主命(おおくにぬしのみこと)との日本最古の恋物語が生まれたこの地は、単なる神社という枠を超え、神話と歴史、そして雄大な自然が融合する強力なパワースポットとして、今もなお多くの人々を惹きつけてやみません。
この記事では、賣沼神社の奥深い魅力に迫るべく、その神話的背景から詳細な歴史、境内の見どころ、そして八上比売の足跡を辿る周辺の関連史跡まで、余すところなくご紹介します。
八上比売と大国主命、日本最古の恋物語
賣沼神社を理解するには、まずその根幹をなす『古事記』の物語を知る必要があります。
因幡の白兎と心優しき神

出雲の国に、大国主命とその八十柱もの兄神たち(八十神)がいました。彼らは皆、その美しさで名高い因幡の国の女神・八上比売に求婚するため、旅に出ます。しかし、兄神たちは心優しき末弟の大国主命を荷物持ちとして扱い、先を急ぎました。
旅の途中、気多の岬で、兄神たちは皮を剥がれて苦しむ一羽の白兎に出会います。彼らは面白半分に「海水を浴びて風に当たるといい」と嘘を教え、兎の苦しみを増大させました。
遅れてやってきた大国主命は、泣きじゃくる兎を不憫に思い、真水で体を洗い、ガマの穂の上に寝転ぶよう優しく教えます。その教えの通りにすると、兎の体は元通りになりました。
この兎こそが、大国主命と八上比売の縁を結ぶ重要な存在となります。兎は感謝し、「八上比売は兄神たちではなく、心優しきあなたを選ぶでしょう」と予言しました。
運命の選択、そして神聖なる結びつき

因幡の八上の地に到着した八十神たちは、我先にと八上比売に求婚しますが、彼女はきっぱりと断ります。そして、予言通り、遅れてやってきた大国主命に「私はあなたの妻となります」と告げたのです。
この神話こそが、賣沼神社が「縁結び」の絶大なご利益を持つとされる所以です。さらに、二人の間には木俣神(きのまたのかみ)という御子神が生まれたことから、「子宝」や「安産」の神徳でも篤く信仰されています。また、絶世の美女であった八上比売にあやかり、近年では「美の女神」としても注目を集めています。
賣沼神社の歴史を紐解く
賣沼神社の歴史は、神話の時代から現代まで、幾多の変遷を経てきました。
『延喜式』に記された古社
この神社の存在を証明する最古の記録は、平安時代の延長5年(927年)に編纂された『延喜式神名帳』です。ここに「因幡国八上郡 賣沼神社」と記されており、朝廷から公式に認められた「式内社」という高い格式を誇ります。
興味深いのはその読み方です。現在では「めぬまじんじゃ」と呼ばれますが、『延喜式』当時は「ひめぬじんじゃ」または「ひめのじんじゃ」と読まれていたとされます。一説には、本来は「比賣沼神社(ひめぬまじんじゃ)」、すなわち「姫(八上比売)の沼の神社」であり、「比」の字が時代と共に脱落したのではないかとも言われています。この名前の変遷自体が、神社の長い歴史を物語っています。
中世の変容と江戸の復古
中世から近世にかけて、神社は神仏習合の影響を受け「西の日天王(にしのにってんのう)」と呼ばれていました。
しかし、日本の古典文化を見直す機運が高まった江戸時代の元禄年間(1688年-1704年)、『延喜式』に記された古名「賣沼神社」へと復されました。これは、仏教の影響を排し、日本古来の神道を尊ぶ国学思想の広がりを背景とした、重要な文化的転換点でした。現在の社殿は、その後の寛政6年(1794年)に再建されたものです。
明治の合祀と現代への継承
明治元年(1868年)、政府の神社合祀政策により、近隣の四社が合祀されました。これにより、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、保食神(うけもちのかみ)、建御名方神(たけみなかたのかみ)、高龗神(たかおかみのかみ)、闇龗神(くらおかみのかみ)の五柱の神々が新たに祀られることとなり、神社の神徳はさらに豊かなものとなりました。
現在、神社には常駐の神職はおらず、地域の方々のボランティアによって大切に護持されています。この手厚い崇敬の念こそが、神社の清浄な空気を今に伝えているのです。
聖なる境内を歩く 見どころガイド
賣沼神社の境内は、決して広くはありませんが、神話の世界観を体現する見どころに満ちています。

- 神話へのいざない:石像と八上姫公園鳥居をくぐると、大国主命、八上比売、そして白兎の三体をかたどった石像が優しく出迎えてくれます。神社に隣接する「八上姫公園」には、二人の恋物語を紙芝居のように描いた石碑が並び、物語を追体験できます。この石碑の原画は、地元・河原町出身の漫画家・藤原芳秀氏によるもので、古代神話と現代アートの美しい融合を見せています。春には桜の名所としても親しまれています。
- 二対の狛犬が語る物語賣沼神社には、それぞれに深い物語を持つ二対の狛犬がいます。
- 子抱き狛犬: 一対は、子犬を優しく抱きかかえる非常に珍しい姿をしています。これには、子宝に恵まれなかった夫婦が当神社に祈願し、無事に子を授かったお礼に奉納したという心温まる伝承が残っており、神社の「子宝・安産」の神徳を象徴しています。
- 愛嬌ある守護者: 拝殿の前には、小ぶりで何とも言えないユーモラスな表情をした狛犬が鎮座しています。威圧感のないその愛らしい姿は、訪れる人の心を和ませ、女神の優しさを伝えているかのようです。
- 信仰の中心と自然の調和拝殿に掲げられた扁額には「稲羽八上比売命神社」と記され、主祭神の名を力強く示しています。境内はスギやタブノキなどの大木に囲まれ、静謐な空気に満ちています。神社のすぐそばを流れる清流・曳田川(ひけたがわ)のせせらぎも、神聖な雰囲気を一層高めています。
八上比売の墓と伝わる「嶽古墳」

賣沼神社を語る上で欠かせないのが、曳田川の対岸に横たわる嶽古墳の存在です。
この古墳は、古墳時代に築かれた前方後円墳で、この地域を治めた有力な首長の墓と考えられています。そして何より重要なのは、この古墳が「八上比売の墓」であるという伝承が地元に残っていることです。
考古学的な遺跡である古墳と、文学的な存在である八上比売。この二つが結びつくことで、神話は単なる物語ではなく、この土地に根差した確かなリアリティを獲得します。そして、名もなき古墳は、女神が眠る神聖な場所として、新たな意味と物語を与えられるのです。賣沼神社が彼女の「生」の舞台であるならば、嶽古墳は彼女の「永遠」の眠りの場所。二つを合わせて訪れることで、八上比売の物語はより深く心に刻まれるでしょう。
- 嶽古墳
- 所在地: 鳥取県鳥取市河原町曳田
- メモ: 賣沼神社から川を挟んだ対岸の山中にあります。引野神社側から登るルートがありますが、道は険しい場合があるため、訪れる際は十分な準備と注意が必要です 26。
八上比売を巡る旅 関連史跡と神社
賣沼神社を訪れたなら、ぜひ足を延して八上比売と大国主命ゆかりの地を巡ってみましょう。物語の世界がさらに広がります。
1. 白兎神社(はくとじんじゃ)
「因幡の白兎」神話のまさにその舞台であり、大国主命と八上比売の縁を取り持った白兎神を祀ります。日本で最初のラブストーリーの発祥地として「恋人の聖地」にも認定されており、境内には可愛らしいうさぎの石像が並びます。

- 所在地: 鳥取県鳥取市白兎603
2. 御湯神社(みゆじんじゃ)
山陰最古級の岩井温泉の近くに鎮座する神社。大国主命と八上比売、そして二人の間に生まれた御子神を祀ります。御子神が産湯として浸かったのが岩井温泉の湯であると伝えられています。

- 所在地: 鳥取県岩美郡岩美町岩井141
3. 酒賀神社(すがじんじゃ)
八上比売と大国主命が新婚時代を過ごしたといわれる神社です。山深い場所にあり、静かで神聖な雰囲気に包まれています。見事な彫刻が施された社殿も必見です。

- 所在地: 鳥取県鳥取市国府町菅野70
4. お城山展望台 河原城
豊臣秀吉が陣を構えたとされる城山に建つ展望台。内部では、八上姫伝説を立体映像で楽しめる「マジカルビジョン」や、地域の歴史・文化に関する展示があり、物語への理解を深めることができます。

- 所在地: 鳥取県鳥取市河原町谷一木1011
参拝・アクセスガイド
賣沼神社への訪問を計画している方のために、実用的な情報をまとめました。
賣沼神社 基本情報
| カテゴリ | 詳細 |
| 正式名称 | 賣沼神社 (めぬまじんじゃ) |
| 所在地 | 〒680-1212 鳥取県鳥取市河原町曳田169 |
| Googleマップ | 賣沼神社 |
| 主祭神 | 八上比売神 (やかみひめのかみ) |
| 合祀神 | 伊弉冉尊, 保食神, 建御名方神, 高龗神, 闇龗神 |
| 主な御利益 | 縁結び、子宝・安産、美 |
| 社務所 | 常駐者なし。 |
| 御朱印 | 通常版と「八上比売アニメオリジナル」版あり。開所時に授与。 |
| 問い合わせ |
アクセス方法
【車でのアクセス】
- 鳥取自動車道「河原IC」より約5分。
- JR鳥取駅より車で約20分。
- 駐車場: 神社に隣接する八上姫公園に無料駐車場があります(約15台、未舗装)。
【公共交通機関でのアクセス】
最寄りのJR駅からは距離があるため、バスの利用が現実的です。
- JR鳥取駅バスターミナルから
- 日ノ丸バスの「用瀬・智頭線」または「散岐線」 に乗車。
- 「曳田(ひけた)」または「引野口(ひきのぐち)」バス停で下車 。
- バス停から神社まで徒歩約6分 。
- 鳥取駅からの所要時間は約30分~40分です 。
- JR因美線「河原駅」から
- 徒歩で約45分(約3-4km)かかります 。タクシーの利用も検討しましょう。
おすすめの参考文献
賣沼神社の背景にある『古事記』の世界をより深く楽しむために、いくつか書籍をご紹介します。
『古事記』の現代語訳
原文は難解ですが、読みやすい現代語訳がたくさん出版されています。
- 『古事記 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集01)』
- 作家・池澤夏樹氏による、原文の力強さを生かした斬新で読みやすい翻訳。詳細な注釈も魅力です。
- Amazonで購入ページを見る
- 『現代語古事記』竹田恒泰
- 古事記への深い理解に基づいた、丁寧で分かりやすい解説が人気の翻訳。なぜ今、古事記を読むべきかという視点も示してくれます。
- Amazonで購入ページを見る
- 『現代語訳 古事記』蓮田善明 (岩波現代文庫)
- 詩人でもあった国文学者による、格調高く美しい文章で神話の世界を味わえる名訳です。
- Amazonで購入ページを見る
絵本『いなばのしろうさぎ』
お子様と一緒に、あるいは神話の入門として、絵本で物語に触れるのもおすすめです。
- 『いなばのしろうさぎ (いもとようこの日本むかしばなし)』
- 人気絵本作家いもとようこさんの温かく可愛らしいイラストで、物語の世界が優しく描かれています。嘘をつくことの戒めも分かりやすく伝わります。
- Amazonで購入ページを見る
- 『いなばのしろうさぎ (日本の神話えほん)』ふしみ みさを (文), ポール・コックス (絵)
- フランスの画家ポール・コックス氏による、色鮮やかで洗練されたイラストが魅力。これまでにない新しい日本神話の世界観を楽しめます。
- Amazonで購入ページを見る

コメント