【佐太神社】風土記の謎、神在祭の真相、ユネスコ遺産「佐陀神能」まで徹底解説

島根県

出雲の名を耳にすれば、多くの日本人は縁結びの神・大国主大神が鎮座する「出雲大社」の壮大な社殿を思い浮かべることでしょう。しかし、出雲の信仰世界は、私たちが想像する以上に広大で、多層的、そして深遠な謎に満ちています。その謎を解き明かすための、もう一つの重要な鍵が出雲国二之宮「佐太神社」です。

この神社は、単に出雲大社に次ぐ格式を持つという序列だけの存在ではありません。奈良時代の地誌『出雲国風土記』にその創祀が記され、中世には出雲大社と肩を並べるほどの権勢を誇り、神々が集う「神在月」には独自の役割を担ってきました。そして、その祭祀から生まれた神楽は、今やユネスコ無形文化遺産として世界にその価値を認められています。

本稿は、神話と歴史の断片を丹念に拾い集め、佐太神社という聖地が内包する壮大な物語を再構築する試みです。なぜこの神社は重要なのでしょうか?祀られる神々は何を語るのでしょうか?そして、古代出雲の真の姿とは何だったのでしょうか?

風土記の時代へ   佐太大神の誕生と古代の信仰

社伝によれば、垂仁天皇54年(西暦25年または134年)の創祀とされ、養老元年(717年)に再建されたといいます 。これらの年代は伝説の域を出ませんが、その信仰の古層を物語るには十分でしょう。  

歴史の光が明確にこの地を照らすのは、天平5年(733年)に完成した『出雲国風土記』においてです。秋鹿郡の条に「佐太御子社(さだのみこのやしろ)」としてその名が記され、郡家(郡の役所)の北東にそびえる神聖な山「神名火山(かんなびやま)」の麓に鎮座することが明記されています 。この記述は、佐太神社が8世紀初頭には既に出雲の地で重要な祭祀拠点であったことを示す、動かぬ証拠です。  

この神社の核心をなすのが、主祭神である佐太大神(さだのおおかみ)です。記紀(『古事記』『日本書紀』)には登場しない、まさに出雲固有の神なのです。風土記は、その劇的な誕生の物語を私たちに伝えています。

佐太大神の母は、万物創生の神・神魂命(かみむすびのみこと)の御子である枳佐加比売命(きさかひめのみこと) 。彼女が現在の松江市島根町加賀にある海食洞「加賀の潜戸(かかのくけど)」で産気づいた時、大切にしていた金の弓矢を波にさらわれてしまいます。母神は「もし我が子が、勇ましき神の子であるならば、弓矢よ還り来たれ」と祈願しました。すると、角の生えた大魚の背に乗り、弓矢が波間から現れたといいます 。  

安堵した母神は「なんと暗い岩窟だろう」と言い、その金の弓矢を放つと、岩壁を射抜き、光が差し込みました。その光の輝きから「ああ、かかやけり」と感嘆したことが「加賀」の地名の由来になったと風土記は語ります 。この神話の舞台である加賀の潜戸は、今も遊覧船で巡ることができ、佐太大神生誕の伝承地として神秘的な雰囲気を湛えています 。  

平安時代に入ると、佐太神社の神威は京の都にも届きます。『日本三代実録』には、貞観年間(859年~877年)に神階が従五位下から従四位下へと昇叙された記録があり、朝廷からも篤い崇敬を受けていたことがわかります 。  

中世の権勢   出雲大社と比肩した「二之宮」の実像

「二之宮」という格式は、一見すると一之宮の下位にあると解釈されがちです。しかし、中世の佐太神社が有した権力と影響力は、その単純な序列観を覆すに余りあります。

鎌倉時代の康元元年(1256年)に作成された『社領注進状』によれば、佐太神社の社領は280丁に及び、これは出雲国一之宮である杵築大社(現在の出雲大社)に匹敵する規模でした 。後の記録では、最盛期には社領7000貫、224人の神人(じにん、神社に仕える人々)を擁したとされ、その経済的基盤がいかに強大であったかが窺えます 。  

この強大な経済力を背景に、佐太神社は江戸時代に至るまで、出雲大社と共に出雲国内の多数の神社を支配下に置く「触下制度(ふれしたせいど)」を確立しました 。佐太神社の管轄は、島根郡、秋鹿郡、楯縫郡、そして意宇郡の西半分に及び、この広大な地域の神社の人事や祭祀に絶大な影響力を行使したのです 。これは、出雲の宗教世界が、出雲大社と佐太神社という二つの極によって分割統治されていたことを意味します。両社は競合しつつも、出雲全体の宗教秩序を維持する、複雑で共生的な関係にあったのです。  

その権威は、武家からも深く敬われました。社宝として伝わる国指定重要文化財「色々威胴丸(いろいろおどしどうまる)」は、戦国時代に出雲を支配した武将・尼子経久が奉納したと伝えられる甲冑です 。これは、佐太神社が地域の政治・軍事権力者にとって、その支配の正当性を保証する重要な精神的支柱であったことの物証に他なりません。  

神々のパンテオン   三殿並立に秘められた神学

佐太神社の境内に入ると、誰もがその特異な社殿配置に目を見張ることでしょう。出雲地方を代表する建築様式である大社造の本殿が三棟、完全に独立して平行に並び立つ「三殿並立」という形式は、全国的にも極めて稀有です 。文化4年(1807年)に建立された現在の社殿は、三棟すべてが国の重要文化財に指定されています 。この配置は、佐太神社が内包する複雑な神学的世界観を物理的に体現したものです。  

  • 【正殿(中央)】出雲と熊野の融合 主祭神・佐太大神を祀ります。そして、配祀神として伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊弉冉尊(いざなみのみこと)速玉男命(はやたまのおのみこと)事解男命(ことさかのおのみこと)が祀られています 。伊弉諾・伊弉冉は国生み神話の創造神ですが、速玉男命と事解男命は熊野三山の祭神と深く関連します。これは、佐太神社が古くから熊野信仰の影響を受け、その神々を取り込んできたことを示唆しています。  
  • 【北殿(向かって右)】皇祖神への眼差し 祀られているのは、皇室の祖神であり太陽神でもある天照大神(あまてらすおおかみ)とその孫・瓊々杵尊(ににぎのみこと)です 。出雲の地に、大和朝廷の神統譜の頂点に立つ神々が祀られていることは、佐太神社が地方の土着信仰に留まらず、中央の権威と結びつくことでその地位を確立していった歴史を物語っています。  
  • 【南殿(向かって左)】出雲神話の伝統と秘儀 八岐大蛇退治で知られる出雲の英雄神、素盞嗚尊(すさのおのみこと)が祀られています 。そして、特筆すべきは、素盞嗚尊と共に正体不明の「 秘説四柱(ひせつよはしら)」と呼ばれる四柱の神が祀られていることです 。その名が秘されているという事実は、この神社に口伝や秘儀といった密教的な要素が存在したことを示唆し、私たちの探求心を強く刺激します。  

この三殿の神々は、出雲の土着性(正殿・南殿)、中央の権威(北殿)、そして他地域からの信仰(正殿の熊野系)が融合した信仰の姿を映し出しています。

しかし、この神々の構成は、近代化の波の中で大きな試練に直面します。明治維新後、新政府と松江藩は、全国の神社を記紀神話に基づく国家的な神統譜に整理・統合しようと試みました。その一環として、佐太神社の主祭神・佐太大神を、記紀に登場する道案内の神・猿田彦命(さるたひこのみこと)と同一であると公式に明示するよう、神社に強硬な命令を下したのです 。  

風土記に記された独自の出自伝承を持つ土着神を、中央の神話体系の一柱に組み込もうとするこの動きに対し、神社の神職たちは「祖法」を盾に猛然と反対しました 。この抵抗は、中央集権的な宗教政策と、地域に根差した生きた信仰との間の深刻な断絶を浮き彫りにします。最終的に神社は譲歩を余儀なくされますが、祭神名の表記は「佐太御子神」から「佐太大神」、そして再び「佐太御子大神」へと揺れ動き、その混乱は長期にわたりました 。この祭神をめぐる葛藤の歴史は、近代国家形成期における地方の信仰共同体が経験したアイデンティティの危機を雄弁に物語っています。  

神在月と母神信仰   もう一つの神在祭の物語

旧暦10月、全国の八百万の神々が出雲に集う「神在月」。出雲大社で神々の会議「神議り」が行われることは広く知られていますが、佐太神社もまた、この神聖な期間に重要な役割を担う「神在の社(かんありのやしろ)」です 。  

古くからの伝承では、出雲に参集した神々は佐太神社に宿泊し、滞在するとされてきました 。出雲大社が神々のための「国際会議場」ならば、佐太神社はさながら「迎賓館」あるいは「グランドホテル」のような役割を担っていたと解釈できます。11月20日から25日にかけて斎行される「神在祭(じんざいさい)」は、神々をもてなすための荘厳な祭りなのです 。  

しかし、なぜ神々は出雲に集うのでしょうか?「縁結びの会議のため」という通説とは別に、佐太神社にはもう一つの深遠な物語が伝えられています。戦国時代に記された『佐陀大社縁起』によれば、神々が集うのは、彼らの親神である伊弉諾尊・伊弉冉尊への「孝行の義」を示すためだといいます 。  

この縁起によれば、佐太神社の背後にそびえる山は、親神が葬られた陵墓であり、神々はその御霊を慰めるために集うのだと説きます 。当初は父神イザナキとされましたが、江戸時代には『古事記』の神話と結びつき、火の神を産んで亡くなった母神イザナミを慕って集う、という解釈が広まっていきました 。この「母神追慕」の物語は、佐太神社のみならず、同じくイザナミと縁の深い  神魂神社熊野大社にも影響を与え、それぞれの神在祭の根拠とされました 。  

現在、佐太神社の神在祭でこの母神信仰が表立って語られることはありません。しかし、境内背後の山中には、イザナミの神陵とされる摂社「母儀人基社(はぎのひともとしゃ)」が静かに祀られており、古代から続く母なる神への信仰の痕跡を今に伝えています 。  

人生の再起動   摂社・田中神社の姉妹神話

佐太神社の境内を訪れたなら、決して見逃してはならない場所があります。それが、本殿から少し離れた場所に鎮座する摂社「田中神社」です。ここは、全国的にも珍しい縁切り」と「縁結びという、相反する二つのご利益を同時に授けることで知られ、人生の転機を求める人々が後を絶ちません 。  

この強力なご利益の背景には、天孫・瓊々杵尊をめぐる二柱の姉妹神の、悲しくも美しい神話が横たわっています。

  • 西社(縁結び・安産)の神:木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
  • 東社(縁切り・長寿)の神:磐長姫命(いわながひめのみこと)

神話によれば、天から降り立った瓊々杵尊は、絶世の美女であった妹の木花開耶姫命に一目惚れし、結婚を申し込みます。父である大山津見神はこれを喜び、姉の磐長姫命も一緒に嫁がせました。姉の磐長姫は岩のように恒久の命を、妹の木花開耶姫は花のような繁栄を天孫にもたらすはずでした。しかし、瓊々杵尊は容姿が醜いとされた姉の磐長姫命だけを父の元へ送り返してしまいます 。この結果、天孫の子孫である天皇の命は、花のように儚いものになったと神話は語ります。  

この悲劇に基づき、田中神社では二つの小社が背中合わせに建てられています 。良縁を司る西社は佐太神社の本殿(瓊々杵尊が祀られる北殿)の方を向いていますが、縁切りを司る東社は本殿に背を向けているのです。  

推奨される参拝作法も決まっています。まず、東社で磐長姫命に、断ち切りたい悪縁(人間関係、悪癖、不運な状況など)との決別を強く祈願します。そしてその後、物理的に身を転じて西社に回り、木花開耶姫命に新たな良縁を願うのです 。  

これは、単なる願掛けではありません。「過去の悪しき縁を意識的に断ち切り、清算してこそ、未来における真の良縁は訪れる」という、人生の変容プロセスを儀式化した、高度な精神的実践なのです。姉妹神の物語に想いを馳せながら祈ることで、参拝者は自らの人生をリセットし、新たな一歩を踏み出す力を得るのです。

神と人が交わる儀式   御座替神事と佐陀神能

佐太神社の信仰が最も凝縮された形で現れるのが、毎年9月24日と25日に行われる最重儀「御座替神事(ござがえしんじ)」と、それに伴い奉納される神楽「佐陀神能(さだしんのう)」です。

御座替神事とは、本殿三社をはじめとする境内諸社の御神座に敷かれている茣蓙(ござ)を、年に一度新しいものに取り替える神事で、神々の霊威が常に新しく力強くあり続けることを願う「常若(とこわか)」の思想を体現した、一年で最も重要な遷座祭です 。この神事に先立ち、宮司は厳格な潔斎に入ります。旧神領であった伊弉諾濱(いざなぎのはま)で身を清めた後、斎館に籠り、神聖な火で調理された食事のみを口にし、外部との接触を一切断ちます 。24日の夜、神職たちが本殿の奥深くでこの神聖な儀式を執り行うのと並行して、舞殿では佐陀神能が舞われます。  

佐陀神能は、出雲流神楽の源流とされ、全国の里神楽に多大な影響を与えてきました 。その文化的価値は極めて高く、国の重要無形民俗文化財を経て、平成23年(2011年)にはユネスコ無形文化遺産に登録されました 。  

佐陀神能は、三部構成の神事舞の総称です。

  1. 七座神事(しちざしんじ):24日の夜、御座替神事と連動して演じられます。面を着けない「直面(ひためん)」の採物舞で、剣や茣蓙などを手に、神を迎えるための場所を舞によって清める、極めて神聖な儀式です 。  
  2. 式三番(しきさんばん):25日に演じられます。御座替神事が無事に完了したことを神に感謝し、奉祝するための儀式的な舞です。
  3. 神能(しんのう):式三番に続き、物語性のある仮面舞踊劇が演じられます。佐太神社の縁起や日本神話の物語が題材となり、神々の世界を劇的に描き出します 。  

特筆すべきは、御座替神事と七座神事の密接な関係性です。神職たちが本殿という非公開の空間で物理的に神座を清め、更新する儀式(御座替神事)と、舞人たちが舞殿という公開された空間で、舞を通じて霊的にその場を清め、神を迎える儀式(七座神事)は、表裏一体の関係にあります。両者は共に「神威の年間更新」という一つの目的のために機能する、共生的な儀礼複合体を形成しています。ユネスコが保護するのは、単なる舞踊ではなく、この神聖な儀式と一体となった、生きた信仰の実践そのものなのです。

出雲の歴史を巡る旅 関連史跡探訪

佐太神社への参拝は、それ自体が深遠な体験ですが、その歴史と神話の世界をより立体的に理解するためには、周辺に点在する関連史跡を訪れることを強く推奨します。

加賀の潜戸(かかのくけど)

佐太大神生誕の地です。新旧二つの洞窟があり、特に「新潜戸」は内部が広く、夏至の頃には朝日が洞内に差し込み、神話の「金の矢」を彷彿とさせる神秘的な光景が見られるといいます 。遊覧船で海上からその奇観を体感できます。  

出雲国庁跡(いずものこくちょうあと)

松江市大草町にある、奈良・平安時代の出雲国の政治の中心地です 。佐太神社が風土記に記された時代、この場所から国司が出雲全域を治めていました。条里制の遺構が残る田園風景の中に立つと、古代の行政区画や、国庁と神社との関係性に思いを馳せることができます。  

神魂神社(かもすじんじゃ)

佐太大神の祖父にあたる神魂命を祀る古社です。現存する大社造の社殿としては日本最古とされ、国宝に指定されています。出雲国造家と深い関わりを持ち、佐太神社と同じく独自の神在祭を行います 。  

熊野大社(くまのたいしゃ)

出雲国一之宮です。火の発祥の神を祀り、「日本火出初之社」とも称されます。佐太神社と同じく、中世には神在祭と母神イザナミを結びつける信仰が存在しました 。  

これらの史跡は、それぞれが古代出雲の物語の重要なピースです。佐太神社を基点としてこれらの地を巡ることで、点と点がつながり、壮大な歴史絵巻が眼前に立ち現れてくるでしょう。

未来へ継承される生きた神話

佐太神社は、過去の遺物ではありません。それは、建築、祭祀、芸能、そして人々の祈りを通じて、今なお神話が生き続ける場所です。出雲大社が「静」の威厳を湛えるならば、佐太神社は「動」の生命力に満ちています。中世の権勢、近代国家との葛藤、そして現代に続く厳粛な祭祀。そのすべてが、この神社の重層的な歴史を形成しています。

出雲を訪れるならば、ぜひ佐太神社まで足を延ばしてみてください。三つ並んだ本殿の前に立ち、風土記の時代から吹き続ける風を感じ、神々の息吹に耳を澄ませてみてほしいのです。そこには、あなたの知らない、もう一つの深遠な出雲の世界が、静かにあなたを待っているはずです。


旅のしおり

アクセス

  • 公共交通機関をご利用の場合
    • JR松江駅の6番乗り場から一畑バス【恵曇・片句・古浦】行きに乗車し、約25~30分。「佐太神社前」バス停で下車後、徒歩約1~2分です 。  
  • お車をご利用の場合
    • 山陰自動車道・松江中央ランプから約19kmです 。  
    • 無料の駐車場が60台分用意されています 。  

地図・位置情報

参考文献 さらなる知の探求へ

本稿で触れた佐太神社と出雲神話の世界に、さらに深く分け入りたい方のために、信頼できる参考文献をいくつかご紹介します。

  1. 『出雲国風土記』 すべての始まりであるこの文献なくして、古代出雲は語れません。佐太神社の原点を知るための必読書です。現代語訳付きの解説書が複数出版されています。
    • 『出雲国風土記』(ハーベスト出版): ポケットサイズで持ち運びやすく、読み下し文と注釈、解説がバランス良くまとまっています。
    • 『解説 出雲国風土記』(今井出版): 写真や地図を豊富に用いており、現地の史跡を巡る際のガイドブックとしても非常に優れています。
  2. 『出雲大社の謎』(朝日新聞出版) 瀧音 能之 著 風土記研究の第一人者が、出雲大社を中心に古代出雲の数々の謎に迫る一冊です。文献を丹念に読み解きながら、古代史のロマンを掻き立ててくれます。佐太神社との関係性を考察する上でも多くの示唆を与えてくれるでしょう。
  3. 『出雲と大和――古代国家の原像をたずねて』(岩波新書) 村井 康彦 著 「大和の三輪山になぜ出雲の神が祀られているのか?」という大胆な問いから、古代における出雲と大和の関係性を読み解く刺激的な一冊です。神話の裏にある政治的・歴史的背景に興味がある読者にとって、知的好奇心を大いに満たしてくれるはずです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました