【黒井城】明智光秀を退けた難攻不落の山城「黒井城」の魅力! 丹波の赤鬼・赤井直正の生涯と春日局の謎に迫る

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歴史の息吹が色濃く残る丹波の地に、戦国時代の激しい攻防を今に伝える山城があります。その名は黒井城。織田信長の天下統一事業に敢然と立ち向かった「丹波の赤鬼」こと赤井(荻野)直正の居城であり、あの明智光秀を二度も苦しめた難攻不落の要塞です。

この記事では、歴史ファンの心をくすぐる黒井城のドラマティックな物語から、実際に訪れるための実践的な情報まで、その魅力を余すところなくご紹介します。さあ、あなたも時を超え、戦国の山城へと足を踏み入れてみませんか?

「丹波の赤鬼」の誕生と黒井城

交通の要衝に築かれた城

黒井城の歴史は古く、南北朝時代の建武年間(1334年~1338年頃)に赤松貞範によって築かれたと伝わります 。標高356メートルの猪ノ口山に位置し、眼下には福知山街道と京街道が交差する交通の要衝が広がるこの地は、丹波を支配する上で極めて重要な場所でした 。  

クーデター、そして「赤鬼」の時代へ

この城の運命が劇的に変わるのは天文23年(1554年)。分家筋であった赤井直正が、宴席で城主の叔父・荻野秋清を討ち、実力で城を奪取します 。この事件を機に、直正は「悪右衛門」と名乗りますが、これは「邪悪」という意味ではなく、常人離れした武勇を持つ者への当時の武士の美称でした 。  

黒井城を拠点とした直正は、その圧倒的な武勇で丹波の「奥三郡」を制圧 。その勢いは但馬や丹後にも及び、人々は彼を畏敬の念を込めて「丹波の赤鬼」と呼びました 。しかし、この急速な勢力拡大は、天下統一を目指す織田信長との衝突を避けられないものとします。  

智将・明智光秀との死闘

第一次黒井城の戦い 赤鬼の策、光秀を打ち破る

天正3年(1575年)、信長は重臣・明智光秀に丹波平定を命じます 。光秀は丹波の国人の大半を味方につけ、黒井城を包囲。勝利は目前かと思われました。  

しかし、天正4年(1576年)1月15日、事態は一変します。味方であったはずの八上城主・波多野秀治が突如として光秀軍の背後を襲ったのです 。挟み撃ちにされた光秀軍は総崩れとなり、命からがら京へ敗走しました。この鮮やかな戦術は、後に「赤井の呼び込み戦法」として語り継がれ、赤鬼・直正の名を天下に轟かせました 。  

第二次黒井城の戦い 赤鬼の死と、要塞の陥落

屈辱的な敗北を喫した光秀は、戦略を転換。短期決戦を諦め、亀山城を拠点に周辺の城を一つずつ落としていく消耗戦へと移行します 。  

戦況が動いたのは天正6年(1578年)3月。英雄・赤井直正が病により急逝 。丹波の反織田勢力は、その精神的支柱を失い、結束力を大きく弱めてしまいます。  

好機を逃さなかった光秀は、まず波多野氏の八上城を一年以上にわたる兵糧攻めの末に攻略 。黒井城を完全に孤立させます。そして天正7年(1579年)8月9日、ついに総攻撃を開始 。もはや抵抗する力を失った黒井城は、ついに落城しました。  

この丹波攻略の成功は、光秀の武将としての評価を決定的なものとし、信長から丹波一国を与えられるという破格の恩賞に繋がったのです 。  

山城の構造と見どころ

黒井城は、猪ノ口山全体を要塞化した典型的な山城です。山頂の本丸・二の丸・三の丸を中心に、尾根筋に沿って無数の曲輪(くるわ)や砦が配置され、山全体が巨大な防御施設となっています 。今も残る土塁や堀切(ほりきり)の跡は、当時の激しい戦いを想像させます。  

見せるための石垣

特に注目すべきは、山頂付近に残る壮大な石垣です。高さ5メートルにも及ぶこの石垣は、自然石をそのまま積み上げる「野面積み(のづらづみ)」という工法で築かれています 。  

興味深いことに、これらの石垣は城下町からよく見える南側と西側に集中しています 。これは落城後、城主となった光秀の重臣・斎藤利三が、新たな支配者の権威と技術力を城下の人々に見せつけるために築いたと考えられています 。防御施設であると同時に、政治的な象徴でもあったのです。  

意外な歴史の繋がり 春日局生誕の地

黒井城の物語は、織田・明智の時代だけでは終わりません。落城後、城主となった斎藤利三の娘・お福、後の徳川三代将軍・家光の乳母として絶大な権力を握る春日局が、この黒井城の麓の下館(現在の興禅寺)で生まれたと伝えられているのです 。  

信長に抵抗した赤鬼の城が、光秀の重臣の居城となり、そして徳川幕府の礎を築いた女性の生誕地となる。この驚くべき歴史の連鎖こそ、黒井城が持つ奥深い魅力の一つと言えるでしょう。

黒井城への訪問ガイド

さあ、実際に黒井城を訪れてみましょう。山城ならではの注意点や、旅をさらに楽しむための情報をご紹介します。

アクセス方法

公共交通機関を利用する場合

  • 最寄り駅: JR福知山線「黒井駅」
  • 駅からのアクセス: 登山口まで徒歩約10分~15分です 。駅を出て正面の道をまっすぐ進むと、案内看板が見えてきます 。  

車を利用する場合

  • 最寄りIC: 舞鶴若狭自動車道「春日IC」
  • ICからのアクセス: 約5分~10分で登山口周辺に到着します 。  
  • 駐車場: 登山口周辺に複数の無料駐車場があります。2020年に新設された駐車場が最も広く、トイレも完備されているためおすすめです 。  

Googleマップ位置情報

登山コースと注意点

  • コース: 主に2つのコースがあります。「なだらかコース」と、より傾斜が急な「急坂コース」です 。山頂までの所要時間はどちらも約40分~60分 。「急坂コース」の方が多くの遺構を見ることができます 。  
  • 服装: 登山に適した靴と服装は必須です。特に下りは滑りやすい箇所があるので注意してください 。  
  • 野生動物: 熊や猪の目撃情報が多数あります。 2021年には登山者が熊に襲われる被害も発生しています。単独での登山は避け、熊よけの鈴やラジオを必ず携帯してください 。  
  • 獣害防止柵: 登山道には柵が設置されています。通行後は必ず閉めてください 。  

丹波霧が織りなす絶景「雲海」

黒井城は、秋から冬にかけて見られる「雲海」の名所としても知られています 。  

  • ベストシーズン: 9月下旬から12月上旬 。  
  • 条件: 夜間と日中の気温差が大きく、よく晴れた風のない早朝 。  
  • 時間帯: 日の出から午前中の早い時間帯 。  
  • 注意: 雲海を見るには夜明け前に登る必要があります。ヘッドライトなどの装備を忘れずに。

まとめ 歴史と絶景が交差する場所

赤井直正の不屈の魂、明智光秀の戦略、そして春日局へと繋がる数奇な運命。黒井城は、戦国時代のダイナミズムを体感できる貴重な史跡です。山頂から丹波の盆地を見下ろせば、武将たちが駆け抜けた時代に思いを馳せることができるでしょう。

しっかりと準備をして、歴史と絶景が待つ天空の城へ、ぜひ足を運んでみてください。


もっと深く知りたいあなたへ 参考文献

黒井城や関連人物についてさらに探求したい方のために、専門的な書籍をいくつかご紹介します。

  • 高橋成計『明智光秀の城郭と合戦』(戎光祥出版、2019年)
  • 高橋成計『明智光秀を破った「丹波の赤鬼」―荻野直正と城郭―』(神戸新聞総合出版センター、2020年)
  • 高柳光寿『明智光秀』(吉川弘文館、1958年、新装版1986年)
  • 奥野高広・岩沢愿彦 校注『信長公記』(角川ソフィア文庫)
    • 織田信長の一代記を記した一級史料。黒井城の戦いについても記述があります。
    • 楽天ブックスで購入  
  • 図録『明智光秀からの手紙-丹波攻略戦を語る史料-』(福知山市 発行)

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