滋賀県長浜市、余呉町。 「鏡湖(きょうこ)」の別名を持ち、冬には一面の雪景色に包まれる余呉湖。その北東岸、かつて北国街道が行き交った要衝に、一社の古社が鎮座しています。
その名は乎彌神社(おみじんじゃ)。
一見するとのどかな田園地帯の鎮守様ですが、この神社には「なぜか別々に祀られた父と子の神」、「賤ヶ岳の戦いによる焼失」、「100年の時を経て果たされた再会」という、大河ドラマ顔負けの歴史が秘められています。
今回は、北近江のディープな歴史スポット、乎彌神社の全貌を、文献史学と民俗学の両面から紐解く歴史旅へご案内します。
「神々の密集地帯」伊香郡の謎
まず、この地が歴史的にいかに特異な場所であるかを知る必要があります。 乎彌神社が鎮座する旧伊香郡(いかぐん)は、古代において異常なほど神社が多かった地域です。
平安時代の法典『延喜式神名帳(927年)』の記録を見てみましょう。
- 伊香郡(北近江):46座
- 浅井郡:14座
- 坂田郡:5座
近隣の郡と比べても、その数は圧倒的です。 なぜこれほど神々が集まったのか? それは、この地を支配した古代豪族「伊香氏」の存在と無関係ではありません。中臣氏(藤原氏の祖)とも同族とされる彼らは、ヤマト王権の北陸進出における最前線基地として、一族の繁栄と国土開発を願い、多くの社を建立したのです。
乎彌神社は、そんな「神々の聖地」における中核的な存在の一つでした。
引き裂かれた父と子
乎彌神社の最大の特徴は、その複雑な祭神(神様)の構成にあります。ここには、古代の「国造り」と中世の「村の事情」が色濃く反映されています。

父神:巨知人命(オミシルヒト)
現在の主祭神です。中臣氏の祖である天児屋根命(アメノコヤネ)の10世孫とされ、余呉湖周辺の湿地帯を開拓した「始祖」であり「開拓の英雄」です。 「シルヒト」という名は、「言葉(託宣)を知る者」あるいは「民を治める者(治人)」を意味すると考えられます。
子神:梨津臣命(ナシトミ)
巨知人命の息子であり、父の事業を受け継いでさらに開発を進めた「継承者」です。
かつて、この親子の神は「別の神社」に祀られていました。
- 乎彌神社(父神):集落の北組が管理
- 乃彌神社(のみじんじゃ/子神):集落の南組が管理
一つの村の中に、北と南で別々の氏神を持つ「一村二社」体制。これは中世の村落において、水利権や本家・分家の関係などで、村が二つの勢力に分かれていたことを示唆しています。 父と子は、村の境界線によって隔てられていたのです。
賤ヶ岳の戦い 神々も逃げられなかった戦火
その均衡が崩れたのは、天正11年(1583年)。羽柴秀吉と柴田勝家が激突した「賤ヶ岳の戦い」です。
余呉湖周辺は、まさに決戦の地となりました。 柴田軍の猛将・佐久間盛政の奇襲、そして秀吉の「美濃大返し」。激しい戦闘のさなか、下余呉の集落は兵火に飲み込まれました。
この時、乎彌神社と乃彌神社の社殿はことごとく焼失。 古代から続いた社殿も、貴重な古文書も灰となり、村は壊滅的な被害を受けました。戦後、生き残った村人たちは仮の社殿を建てて祈りを繋ぐのが精一杯で、本格的な復興には長い年月を要しました。
寛延の再建 166年越しの「父子の再会」
戦災から復興し、村が経済力を取り戻した江戸時代中期。 寛延2年(1749年)、村に大きな転機が訪れます。
北組と南組の住民が話し合い、ある決断を下しました。 「これからは、二つの神社を一つに合わせて、立派な社殿を建てよう」
こうして、父神(乎彌)を祀る社殿に子神(乃彌)が合祀され、現在の乎彌神社の形が完成しました。これは単なる神社の合併ではありません。 戦乱の傷跡を乗り越え、分断されていた村落共同体が「一つのムラ」として和解し、結束した歴史的瞬間だったのです。
現在、本殿に静かに並ぶ父子の神は、村人たちの平和への願いの象徴とも言えるでしょう。
日本最古の「羽衣伝説」と神社の意外な関係
余呉湖は別名「鏡湖」とも呼ばれますが、実はここが日本における「羽衣伝説」の発祥地の一つ(『近江国風土記』逸文)であることをご存知でしょうか?
静岡県の「三保の松原」が有名ですが、余呉の伝説はそれよりも古く、より人間臭いドラマに満ちています。そしてこの伝説こそが、乎彌神社のルーツそのものなのです。

白い犬と8人の天女
伝説はこう語ります。 昔、伊香郡の伊香小江(いかごのおえ=余呉湖)の南岸で、8羽の白鳥が天から舞い降り、美しい天女となって水浴びをしていました。 それを見ていたのが、土地の豪族・伊香刀美(いかとみ)です。
彼は白い犬をけしかけて、一番年下の天女の羽衣(天の羽衣)を盗ませました。羽衣を失い天に帰れなくなった天女は、仕方なく伊香刀美の妻となります。
神社に祀られているのは「天女の孫」?
二人の間には4人の子供(兄・弟・娘二人)が生まれました。この子供たちこそが、伊香郡を治めた伊香連(いかごのむらじ)の祖先となったと伝えられています。
ここで乎彌神社の祭神「巨知人命(オミシルヒト)」の系譜を思い出してください。 彼は中臣氏・伊香氏の系譜に連なる神です。つまり、伝説と系譜を重ね合わせると、以下のような衝撃的な事実が浮かび上がります。
- 夫(伊香刀美) ≒ 伊香氏の祖神(伊香津臣命など)
- 妻(天女) ≒ 余呉湖の水神・母なる神
- 子孫(乎彌神社の神) ≒ 天女の血を引く一族
乎彌神社は、単なる開拓の神様ではなく、「天女と地上の人間のハーフである一族が、偉大な祖先を祀った場所」という側面が見えてくるのです。
母は天へ、残された父子
伝説の結末は切ないものです。 後に天女は隠されていた羽衣を見つけ、夫と子供を残して天へ帰ってしまいます。残された伊香刀美は独り、空を見上げて嘆き悲しんだといいます。
乎彌神社に配祀されている「海津見命(水神)」は、去ってしまった母(天女)を慕い、その霊を慰めるために祀られたものかもしれません。 そう考えると、静かな境内に漂うどこか寂しげで神秘的な空気も、より深く味わえるのではないでしょうか。
奇祭「太鼓踊り」に見る村の祈り
乎彌神社を訪れるなら知っておきたいのが、滋賀県選択無形民俗文化財「下余呉の太鼓踊り」です。
異形の装束「シャグマ」
毎年8月下旬に行われるこの祭礼では、子供たちが「シャグマ(赤熊)」と呼ばれる鳥の羽で作ったカツラを被り、派手な衣装で太鼓を打ち鳴らします。その姿は、日常の少年ではなく、神の使い(異形の者)へと変身した姿です。
雨乞いか、労働歌か?
この踊りの起源には二つの説があります。
- 雨乞い説: 雷鳴のような太鼓の音で、龍神(水神)を呼び覚まし雨を降らせる呪術。
- 東本願寺再建説: 江戸時代、京都・東本願寺の再建用材木を運搬した際、人夫たちを鼓舞するために踊ったもの。
内陸でありながら「海津見命(ワタツミ=海の神)」を配祀する乎彌神社。そこには、巨大な水瓶・余呉湖に対する畏怖と、農業用水の安定を願う切実な祈りが込められています。
歴史旅ガイド
現地を訪れる際のポイントをまとめました。
- 鎮守の森と赤い橋 駅から歩くと見えてくる森。手前を流れる小川にかかる赤い橋は、俗界と神域を分ける結界です。ここで心を整えましょう。
- 江戸時代の建築美 現在の本殿は、江戸時代の再建時の様式(一間社流造)を伝えています。派手さはありませんが、風雪に耐えた木造建築の力強さがあります。
- 周辺の歴史スポット 神社のすぐ近くには、賤ヶ岳の戦いの古戦場跡や、天女伝説が残る余呉湖畔の遊歩道があります。セットで巡るのがおすすめです。
基本情報

- 名称:式内 乎彌神社(おみじんじゃ)
- 住所:滋賀県長浜市余呉町下余呉2053
- グーグルマップの位置情報
- アクセス:JR北陸本線「余呉駅」より徒歩約12分


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