日本人の心のふるさと、伊勢神宮。 2000年の歴史を誇るこの聖域は、ある一人の女性の「祈りと旅」によって誕生しました。 その名は、倭姫命(やまとひめのみこと)。
第11代垂仁天皇の皇女であり、初代斎王として天照大御神(あまてらすおおみかみ)に仕えた彼女は、単なる「場所選びの担当者」ではありませんでした。彼女は、古代国家の政治的境界線を確定させた「外交官」であり、現代に続く神道の形式を整えた「システムオーガナイザー」でもあったのです。
今回は、正史『日本書紀』と中世の秘伝書『倭姫命世記』を紐解き、伝説のヴェールに包まれた倭姫命の生涯と、彼女が歩んだ壮大な巡幸ルート「元伊勢」の真実に迫ります。
神と人が分かれる時

崇神朝のパンデミックと祭祀の改革
物語は、倭姫命の父である垂仁天皇の先代、第10代崇神天皇の御代に遡ります。 当時、国内には疫病が蔓延し、多くの民が死に絶えるという未曾有の国難が襲いました。天皇はこれを「神の祟り」と恐れ、それまで宮中で「同床共殿(どうしょうきょうでん)」として祀っていた天照大御神を、宮殿の外へお遷しする決断を下します。
これが「神と人の分離(聖俗分離)」の始まりでした。 当初、その役割は崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託されましたが、彼女が高齢となったため、姪にあたる倭姫命へと引き継がれることになります。
「御杖代」としての覚悟
倭姫命に与えられた称号は「御杖代(みつえしろ)」。 文字通り「神の杖の代わり」であり、神の意志を受け、神を背負って歩くシャーマン(依代)としての役割です。彼女は父・垂仁天皇から「大御神の鎮座すべき安住の地を探せ」という至上命令を受け、大和の笠縫邑(かさぬいむら)を後にしました。
元伊勢巡幸 なぜ「遠回り」をしたのか?
倭姫命の旅は、大和から伊勢へ直行したわけではありません。 そのルートは、大和 → 伊賀 → 近江(滋賀) → 美濃(岐阜) → 尾張(愛知) → 伊勢(三重) と、近畿から東海地方を大きく迂回するものでした。
なぜ、これほどの遠回りが必要だったのでしょうか? ここには、当時のヤマト王権が抱いていた政治的意図が見え隠れします。

水運と交通の要衝の掌握
彼女が長期滞在した近江(甲可日雲宮)や美濃(伊久良河宮)、尾張(中嶋宮)は、いずれも琵琶湖水系や木曽三川(揖斐・長良・木曽)といった巨大な水運ルートの拠点です。 祭祀を行う皇女がこれらの地に滞在することは、その地域の豪族と連携し、物流の大動脈を王権の支配下に置くデモンストレーションでした。
東国への境界線の確定
大和から見て東方は、まだ王権の威光が十分に届かない未知の領域でした。倭姫命の巡幸は、大和王権の勢力圏(ボーダーライン)を東へと押し広げるための「聖なる国見」でもあったのです。 彼女の足跡(元伊勢)は、そのまま初期ヤマト王権の最大版図と重なります。
倭姫命の足跡を辿る 主な「元伊勢」巡礼スポット
倭姫命が数十年をかけて巡った場所は「元伊勢(もといせ)」と呼ばれ、現在はその跡地に神社が鎮座しています。ここでは、巡幸ルートの中でも特に重要な、代表的な比定地(候補地)をピックアップしました。
歴史ロマンを感じる旅の参考にしてください。
| 順序 | 国名 | 伝説上の宮名 | 現在の神社(比定地) | 見どころ・特徴 |
| START | 大和 | 笠縫邑 (かさぬいむら) | 檜原神社 (奈良県桜井市) | 【旅の始まり】 三輪山の麓にあり、鳥居越しに二上山を望む絶景スポット。「元伊勢」の原点。 |
| 1 | 伊賀 | 隠市守宮 (なばりいちもりのみや) | 宇流冨志禰神社 (三重県名張市) | 大和から伊賀への入り口。ここから東国への旅が本格化します。 |
| 2 | 近江 | 甲可日雲宮 (こうかひくものみや) | 日雲神社 (滋賀県甲賀市) | 【4年間滞在】 琵琶湖水系との接触点。現在の信楽焼の里に近い山間の静かな社。 |
| 3 | 美濃 | 伊久良河宮 (いくらがわのみや) | 天神神社 (岐阜県瑞穂市) | 【4年間滞在】 長良川流域の要衝。東国勢力との結節点となった場所。 |
| 4 | 尾張 | 中嶋宮 (なかじまのみや) | 酒見神社 (愛知県一宮市) | 尾張氏の拠点。伊勢湾岸ルートを確保するための重要拠点。 |
| 5 | 伊勢 | 桑名野代宮 (くわなのしろのみや) | 野志里神社 (三重県桑名市) | いよいよ伊勢国へ。ここから南下して現在の神宮を目指します。 |
| 6 | 伊勢 | 飯野高宮 (いいのたかみや) | 神山神社 (三重県松阪市) | 櫛田川のほとり。水運を利用して移動した痕跡が残ります。 |
| GOAL | 伊勢 | 五十鈴宮 (いすずのみや) | 皇大神宮 (伊勢神宮 内宮) | 【最終目的地】 「この国に留まりたい」という神託を受け、ついに鎮座。 |
伊勢への到達と「神宮システム」の構築

運命の神託
数十年の旅の末、倭姫命はついに伊勢国に入り、五十鈴川のほとりに辿り着きます。ここで天照大御神は、歴史に残る有名な神託を下しました。
「是の神風の伊勢国は、常世の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。傍国(かたくに)の可憐(うま)し国なり。是の国に居らんと欲(おも)ふ」
「常世(神の世界)からの波が寄せる美しい国」という、極めて審美的な理由でこの地が選ばれました。ここに、皇大神宮(内宮)が創建されます。
倭姫命が作った「仕組み」
倭姫命の凄さは、場所を見つけて終わりではなかった点です。彼女は伊勢において、現代まで続く神宮の運営システムを構築しました。
- 神嘗祭(かんなめさい)の創始: 巡幸中、真名鶴が稲穂をくわえている姿を見て、その稲を大御神に捧げたという伝承があります。これが、その年の新穀を神に捧げる神宮最大の祭り「神嘗祭」の起源となりました。
- 食の神を呼ぶ(外宮の起源): 「私一人では食事が安らかにできない」という天照大御神の夢告を受け、丹波国から食事の神・豊受大御神(とようけのおおみかみ)を呼び寄せました。これが外宮の始まりであり、「神様も食事を大切にする」という日本独自の信仰形態を決定づけました。
ヤマトタケルへの草薙剣授与
倭姫命の物語におけるもう一つのハイライトは、甥である日本武尊(ヤマトタケル)との交流です。
「死ねと思っているのか」
『古事記』において、父・景行天皇から過酷な東国征伐を命じられたタケルは、伊勢の叔母・倭姫命を訪ね、「天皇は私に死ねと思っているのでしょうか」と涙ながらに訴えます。 国家の英雄の、最も人間臭い弱音を受け止めたのは、母ではなく叔母である倭姫命でした。
託された「知恵」と「武力」
倭姫命は彼に対し、伊勢神宮に伝わる至宝「草薙剣(天叢雲剣)」と、火打石が入った「御嚢(袋)」を授けます。 「危ない時はこれを開けなさい」という彼女の言葉と、授けられた神器によって、タケルは焼津での火攻めを切り抜け、東国平定を成し遂げることができました。
このエピソードは、倭姫命が「神の権威(伊勢)」によって「武力(タケル)」を正統化し、守護する存在であったことを象徴しています。
『倭姫命世記』が説く「正直」
倭姫命の事績の多くは、実は『古事記』『日本書紀』には詳しく書かれていません。その詳細を伝えるのは、鎌倉時代に成立した伊勢神道の経典『倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)』です。
この書物の中で、倭姫命は次のような深淵な教えを説いています。
「神は垂るるに祈祷を以て先と為し、冥は加ふるに正直を以て本と為せり」
(現代語訳:神が恵みを垂れるのは、人の祈りがあるからである。そして、神の見えない加護(冥加)は、その人の心の「正直」さを根本として与えられるのである)
形式的なお供え物よりも、祈る人の心の「正直さ」と「清浄さ」こそが神に通じる。 この思想は、中世以降の日本人の道徳観に決定的な影響を与え、現代の私たちが神社で手を合わせる際の「心のあり方」の原点となっています。
現代に残る足跡
大正時代、伊勢市民の請願により、内宮の別宮として「倭姫宮(やまとひめのみや)」が創建されました。伊勢市内の倉田山に鎮座するこの社は、静寂な森に包まれ、2000年の時を超えて彼女の功績を今に伝えています。
皇女として生まれ、聖地を求める旅に生涯を捧げ、英雄を導き、神道の精神的支柱を築いた倭姫命。 次に伊勢神宮を訪れる際は、内宮・外宮だけでなく、ぜひ倭姫宮や、あるいは皆様の近くにある「元伊勢」の伝承地にも足を運んでみてください。
【参考データ:主な元伊勢伝承地】
記事を読んで現地を訪れたい方のために、代表的な元伊勢をご紹介します。
- 檜原神社(奈良県桜井市): 「元伊勢」の始まりの地。三輪山を背にした絶景。
- 酒見神社(愛知県一宮市): 尾張滞在時の伝承地(中嶋宮)。
- 野志里神社(三重県桑名市): 伊勢国に入った最初の地。
- 竹佐々夫江神社(三重県多気町): 「懸税(かけちから)」発祥の地。
- 籠神社(京都府宮津市): 豊受大御神の故郷とされる「元伊勢」。

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