「会津(あいづ)」という地名には、古代日本の国家形成に関わる壮大な物語が秘められています。
第10代崇神天皇の命を受けた四道将軍・武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)。
記紀神話ではさらりと語られる彼の東征ですが、その足跡を辿ると、公式記録にはない「死の伝承」や、現代の考古学を驚愕させる「鉄剣の銘文」など、ミステリアスな事実が浮かび上がってきます。
本記事では、武渟川別命の遠征ルートを追体験しながら、関連する神社や古墳を網羅的に解説。ヤマト王権がいかにして東国をその版図に収めたのか、その戦略と実像に迫ります。
崇神天皇の決断と「四道将軍」の任務
3世紀から4世紀にかけての日本列島。 ヤマト王権は、疫病の流行や国内の混乱という未曾有の危機に直面していました。第10代崇神天皇(ハツクニシラススメラミコト)は、祭祀によって神々の怒りを鎮めると同時に、王権の支配領域を地方へと拡大する決断を下します。
そこで選抜されたのが、皇族の将軍たち、いわゆる「四道将軍(しどうしょうぐん)」です。
- 北陸道: 大彦命(父/おおびこのみこと)
- 東海道: 武渟川別命(子/たけぬなかわわけのみこと)
- 西道(山陽): 吉備津彦命
- 丹波(山陰): 丹波道主命
特筆すべきは、東日本に対して「親子による挟撃作戦」を展開したことです。日本海側を父が、太平洋側を子が進み、最終的に東北地方で合流する。これは、当時の地理感覚からすれば想像を絶する壮大な軍事・開拓プロジェクトでした。
岐阜に残る「将軍戦死」の衝撃伝承
武渟川別命の進軍ルートである東海道への入り口、美濃国(現在の岐阜県)。ここに、正史『日本書紀』には記されていない衝撃的な伝承が残っています。
【岐阜市】津神社(つじんじゃ)の伝承
岐阜市曽我屋にある津神社(または方県津神社)の由緒には、「武渟川別命はこの地で戦死(あるいは病死)した」という説が語り継がれています。
- 伝承の概要: 武渟川別命は美濃の在地勢力との戦い、あるいは困難な治水・開拓の過程で命を落とし、その霊を慰めるために祀られた。
- 歴史的意味: この伝承は、東国遠征が決して平和的なパレードではなく、激しい抵抗に遭いながらの過酷な進軍であったことを示唆しています。あるいは、ここで初代の「タケヌナカワワケ」が倒れ、その息子や副将が名前(役割)を受け継いで進軍を続けた可能性もあります。
訪問ガイド:津神社(岐阜県岐阜市曽我屋) 境内に立つと、長良川水系の豊かな水脈を感じられます。古代、ここが水運の重要拠点であり、ここを制圧することが東国進出の第一歩だったことが分かります。
東海道の進軍 霊峰富士と関東平野の制圧
美濃を越えた遠征軍は、太平洋沿岸(東海道)を東へと進みます。彼らが頼りにしたのは、武力だけでなく「神々の力」でした。
【静岡県】富知六所浅間神社(ふじろくしょせんげんじんじゃ)
静岡県富士市にあるこの古社には、東征の途上、武渟川別命が立ち寄り、富士山の神霊に国家安泰と遠征の成功を祈願したという伝承が残ります。 当時、噴煙を上げていたかもしれない富士山は、東国への入り口にそびえる荒ぶる神の象徴。この神を鎮める(味方につける)ことは、兵士の士気を高めるためにも不可欠な祭祀でした。
【埼玉県】勝呂神社(すぐろじんじゃ)
箱根の難所を越え、関東平野に入った軍勢は、武蔵国(埼玉県)に拠点を築きます。 坂戸市にある勝呂神社には、「境内の古墳に武渟川別命が埋葬されている」という伝承があります。岐阜での死亡説に続き、ここでも「埋葬」の伝承があるのは、彼(もしくはその一族)がこの地に定住し、地域の支配者として土着したことを物語っています。
決戦の地、北関東 阿倍氏と那須国造の拠点
関東平野の北部は、東北地方への入り口となる戦略的要衝です。ここには武渟川別命を祖とする氏族の足跡が色濃く残っています。
【茨城県】健田須賀神社(たけだすがじんじゃ)
結城市にあるこの神社は、旧結城郡の総鎮守。 創建に関わったのは、武渟川別命の末裔である竹田臣(たけだのおみ)とされます。主祭神として武渟川別命を祀っており、阿倍氏の一族が常陸国(茨城県)の西部を開拓し、確固たる勢力を築いていた証拠と言えます。
【栃木県】国宝・那須国造碑(なすのくにのみやつこひ)
大田原市にある日本三古碑の一つ「那須国造碑(700年建立)」には、被葬者である那須直韋提(なすのあたいいで)の系譜が記されています。 那須国造家は、武渟川別命の孫にあたる意布比命(おふひのみこと)を祖としており、石碑という動かぬ証拠によって、この一族が代々この地を治めていたことが証明されています。
会津での再会と「国家統一」の象徴
そして物語はクライマックスへ。 太平洋側を北上した武渟川別命の軍は、栃木県の那須・白河を抜けて東北地方南部へ突入します。一方、日本海側を進んでいた父・大彦命も新潟の山々を越えていました。

地名「会津」の起源
二つの軍勢が出会ったのが、現在の福島県会津盆地です。 『古事記』はこう記します。
「建沼河別、その父大毘古と共に相津(あいづ)に往き遇ひき。かれ、そこを相津と謂ふ。」
父と子が、東と西から日本列島を半周して巡り合う。この劇的な合流により、東西のルートが一本に繋がり、ヤマト王権の支配網が完成しました。
【福島県】伊佐須美神社(いさすみじんじゃ)
会津美里町に鎮座する会津総鎮守。ここには、大彦命と武渟川別命が揃って祀られています。 社伝によれば、二人の将軍は国家鎮護のために国土開拓の神(イザナギ・イザナミ)を祀ったとされ、後に彼ら自身も「伊佐須美大神」として崇められるようになりました。会津の人々にとって、彼らは征服者ではなく、湿地帯を豊かな農地に変えた「開拓の祖神」なのです。
【考古学】会津大塚山古墳
この神話を裏付ける決定的な証拠が、会津若松市にある「会津大塚山古墳」(4世紀末築造)です。
- 形状: 全長114mの大型前方後円墳。大和(奈良)の桜井茶臼山古墳(大彦命の娘の墓説あり)と相似形。
- 出土品: 畿内王権との同盟を示す「三角縁神獣鏡」。 これは、奈良の王族と会津の首長が、極めて強い血縁・政治的同盟関係にあったことを物理的に証明しています。
稲荷山鉄剣が語る真実

最後に、この物語の信憑性を決定づけた至宝を紹介しましょう。 埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」(国宝)です。
115文字の銘文には、被葬者「ヲワケの臣」の系譜として、始祖の名がこう刻まれていました。
「上祖、名はオオヒコ(大彦)」
神話上の存在と思われていた四道将軍・大彦命の名が、5世紀の鉄剣に刻まれていたのです。これにより、大彦命・武渟川別命の親子、そして彼らを祖とする阿倍氏一族の東国経営が、虚構ではなく「歴史的事実」であったことが確定しました。
武渟川別命の足跡を巡る旅へ
武渟川別命の東国遠征は、単なる領土拡大の記録ではありません。 それは、岐阜での苦難、静岡での祈り、関東での定着、そして会津での大団円へと続く、古代の人々の汗と血が滲んだ「建国のドラマ」そのものです。
地図を開き、岐阜から静岡、関東を経て会津へと続く一本の線を指でなぞってみてください。そこには、2000年前に一人の男(あるいはその一族)が歩き、日本という国の形を作っていった道が浮かび上がってくるはずです。






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