奈良盆地の東南、なだらかな稜線を描く円錐形の山があります。 三輪山(みわやま)――その秀麗な姿は、万葉の昔から「神奈備(かんなび=神が隠れ住む場所)」として仰がれてきました。
その麓に鎮座するのが、大和国一之宮・大神神社(おおみわじんじゃ)です。 一歩足を踏み入れると、どこか他の神社とは違う、原初的な空気に包まれます。その違和感の正体、それは拝殿の奥にあるはずの「本殿」が存在しないことです。
ここでは、社殿という「建物」の中に神様はいません。 背後にそびえる三輪山そのものがご神体であり、人々は拝殿を通して山を直接拝むのです。これは、神社建築が確立する以前、縄文・弥生時代から続く日本最古の信仰形態(自然崇拝)を、奇跡的に今に残している証拠です。
今回は、記紀神話の「国造り」と「祟り」、そして厳格な禁足地が守り抜いてきた、この国の祈りの原点へ深く分け入っていきましょう。
記紀神話が語る「祭祀」と「政治」の分離
大神神社の主祭神は、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)。 「大いなる物の主」という名の通り、すべての精霊や事象を司る強大な神ですが、その神格には「和魂(にぎみたま)」としての慈悲深さと、「荒魂(あらみたま)」としての恐ろしさが同居しています。
その二面性が最も顕著に現れたのが、第10代・崇神天皇の御代です。

国家存亡の危機と「夢告」
『日本書紀』によれば、崇神天皇の時代、国内には疫病が蔓延し、多くの民が死亡。さらには各地で反乱の兆しが見え、ヤマト王権は崩壊の危機に瀕していました。 天皇が神床で沐浴潔斎して祈ると、夢に大物主大神が現れ、衝撃的な事実を告げます。
「国が乱れているのは、我が心によるものだ(私が祟りをなしているのだ)」
そして、こう続けました。
「我が子である意富多々泥古(おおたたねこ)をもって私を祀らせれば、直ちに平らぐであろう」
オオタタネコの発見
天皇は八方手を尽くして、茅渟(ちぬ)の県(現在の大阪府)で陶邑に住む意富多々泥古を探し出し、彼を神主として大物主大神を祀らせました。すると、疫病は嘘のように終息し、国内は再び繁栄を取り戻したといいます。
この伝承は、歴史学的に非常に重要な意味を持っています。 それは、「政治を行う王(天皇)」と「神を祀る司祭(意富多々泥古)」の役割分担が、この時期に確立されたことを示唆しているからです。武力だけでなく、土着の強力な神を丁重に祀り上げることで精神的統合を図る――これが、ヤマト王権が国家としての形を整えていく重要なプロセスでした。
三輪山伝説 「赤い糸」と蛇神信仰
三輪山にまつわる神話といえば、ロマンチックな「神婚説話」も外せません。『古事記』に記されたこの物語は、「三輪」という地名の由来にもなっています。
糸巻きの伝説
『古事記』によると、絶世の美女・活玉依姫(いくたまよりひめ)のもとに、毎夜麗しい貴公子が訪れ、二人は愛し合います。しかし、夜明けと共に消える彼の素性はわかりません。 姫は両親の助言に従い、赤土を塗った麻糸を針に通し、貴公子の着物の裾に縫い付けました。
翌朝、糸を辿っていくと、糸は鍵穴を通り抜け、三輪山の社へと続いていました。 そして、手元の糸巻きに残っていた糸が「三勾(みわ=三巻き)」だけだったことから、この地を「三輪」と呼ぶようになったのです。
「巳さん」への信仰
鍵穴を通り抜けたことからも分かるように、貴公子の正体は「蛇」でした。 蛇は脱皮を繰り返すことから「再生」「永遠の命」の象徴であり、水神・雷神としても信仰されます。
現在でも、大神神社の拝殿前にあるご神木「巳の神杉(みのかみすぎ)」の根元には、蛇の好物とされる卵とお酒が参拝者によって絶えず供えられています。運が良ければ、この神杉の洞から白蛇が現れるのを目撃できるかもしれません。
神と人が交錯する「最古の巨大古墳」
三輪山の北西の麓に、全長約276メートルという圧倒的な規模を誇る巨大な前方後円墳があります。これが箸墓古墳です。 実はこの古墳の被葬者とされる女性と、大神神社の神様(大物主大神)の間には、切なくも恐ろしい「夫婦の縁」があるのです。

神の妻となった巫女女王
『日本書紀』によると、この古墳に眠っているのは、崇神天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)とされています。彼女は絶大な霊力を持つ巫女的な存在であり、大物主大神の妻となりました。
しかし、大物主大神は夜にしか姫のもとへ訪れません。 「どうかお姿を見せてください」と懇願する姫に対し、神は「明日の朝、櫛箱の中に入っていよう。だが、決して驚いてはならぬ」と告げます。
翌朝、姫が恐る恐る箱を開けると、そこには美しい小蛇がいました。 姫が驚いて声を上げてしまうと、神は恥じて人の姿に戻り、「お前は私に恥をかかせた」と怒って三輪山へと飛び去ってしまいました。 後悔した姫は、その場で箸(はし)で陰部(ホト)を突いて亡くなってしまいます。そのため、彼女の墓は「箸墓(はしはか)」と呼ばれるようになったのです。
この伝説は、三輪山の神が「蛇神」であることを決定づけるとともに、当時の祭祀を司る女性シャーマン(姫)と、三輪山の神との密接な契約関係を示唆しています。
重要文化財「三ツ鳥居」と元伊勢「桧原神社」
大神神社の特異性を象徴する建築物が、拝殿の奥にある「三ツ鳥居(みつとりい)」(重要文化財)です。
結界としての鳥居
明神鳥居の左右に、さらに小さな鳥居が連結したような独特の形。 これには扉がついており、拝殿という「人の世」と、禁足地(三輪山)という「神の世」を隔てる厳重な結界の役割を果たしています。通常は拝殿に遮られて直接見ることはできませんが(参集殿での申し込み等で拝観できる場合あり)、その神秘的な姿は、古神道の厳しさを今に伝えています。
もう一つの三ツ鳥居 桧原神社
大神神社から北へ続く「山の辺の道」を20分ほど歩くと、摂社・桧原神社(ひばらじんじゃ)があります。 ここにも社殿はなく、三ツ鳥居を通して三輪山を遥拝する形式がとられています。
実はここは、崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が、天照大御神を皇居から移して最初にお祀りした「倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)」の伝承地。つまり、伊勢神宮へ鎮座する前の「元伊勢」の始まりの場所です。 三輪山の西に位置するため、春分・秋分の日には、三ツ鳥居の中央に夕日が沈む神々しい光景が見られます。
聖域への立ち入り 三輪山登拝の心得

かつて三輪山は、神官や僧侶以外は足を踏み入れることの許されない「禁足地」でした。 明治以降、熱心な信者たちの要望により、特別に許可を得て入山(登拝)できるようになりましたが、これは観光やハイキングとは根本的に異なります。
「神様の御身体そのものを踏みしめて登る」という、極めて畏れ多い行いだからです。
厳格なルール(タブー)
現在でも、登拝には厳しいルールが課されています。
- 撮影禁止: 山内でのカメラ・ビデオ撮影は一切禁止。
- 飲食禁止: 水分補給以外の飲食は厳禁。
- 火気厳禁、草木の持ち出し禁止
- 私語を慎む
受付(摂社・狭井神社)で白い襷(たすき)を受け取り、自らお祓いをしてから入山します。 往復約4キロの道程には、古代の祭祀遺跡である磐座(いわくら)が点在し、頂上の奥津磐座には大物主大神が鎮まるとされています。
杉や檜の原生林に覆われた山中は、静寂そのもの。 現代人が失いかけた「畏怖の念」を、肌で感じることができる稀有な場所です。
酒と薬の神様 生活に息づく信仰
最後に、大神神社が「恐ろしい祟り神」であると同時に、私たちの生活を守る「恵みの神」であることを紹介しましょう。
- 酒造りの神 美味しいお酒ができると、酒屋の軒先に「杉玉(酒林)」が吊るされますが、この起源は大神神社です。毎年11月14日の「醸造安全祈願祭(酒まつり)」には、全国の蔵元が集まり、拝殿の大杉玉が青々とした新しいものに架け替えられます。
- 薬の神(狭井神社) 登拝口のある摂社・狭井神社(さいじんじゃ)は、病気平癒の神様として知られます。拝殿脇にある「薬井戸」から湧き出るご神水は、万病に効くとされ、遠方から汲みに来る人が絶えません。 毎年4月の「鎮花祭(はなしずめのまつり)」には、多くの製薬会社から薬が奉納されます。
アクセス情報
大神神社(おおみわじんじゃ)

【電車でのアクセス】 最寄り駅は、風情ある無人駅です。
- JR万葉まほろば線(桜井線)「三輪(みわ)駅」 下車、徒歩約5分。
- 駅を出て商店街を通り抜けると、すぐに二の鳥居が見えてきます。
- ※ICカード(ICOCA、Suica等)利用可能です。
【バスでのアクセス(土日祝のみ)】 JR・近鉄「桜井(さくらい)駅」北口2番乗り場より、路線バス(大神神社二の鳥居前行き等)が運行しています。
- 所要時間:約20分
- 運行日:土・日・祝日のみ(毎月1日など例外日あり)
【車でのアクセス・駐車場】
- 無料駐車場あり
- 二の鳥居南側や、大鳥居の近くに参拝者専用の広大な無料駐車場(約400台など複数箇所)があります。
- ※お正月(1/1〜1/5)など特定の繁忙期は有料・交通規制あり。



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