日本の地名には「難読地名」と呼ばれるものが数多く存在しますが、京都府京丹後市にある「間人」ほど、歴史のロマンと深い哀しみを秘めた読み方は他にないかもしれません。
通常であれば「まびと」「はしひと」と読むこの文字を、この地では「たいざ」と読みます。
その背景には、飛鳥時代を揺るがす政争、そこから逃れた高貴な母子、そして彼女を受け入れた村人たちの温かい交流の物語がありました。今回は、聖徳太子の生母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の伝説が息づく、丹後半島の聖地「間人」を深く掘り下げていきます。
飛鳥の都を追われて 伝説の幕開け
時は6世紀後半。日本の歴史が大きく動こうとしていた飛鳥時代前夜のことです。 大和の都(現在の奈良県)では、仏教の受容を巡り、崇仏派の蘇我氏と、廃仏派の物部氏による激しい権力闘争が繰り広げられていました。
この争いは単なる宗教論争にとどまらず、皇位継承を巡る血で血を洗う内乱へと発展していきます(丁未の乱)。 この渦中にいたのが、用明天皇の皇后であり、後の聖徳太子(厩戸皇子)の母である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)でした。
夫である用明天皇を亡くし、幼い皇子を抱えた彼女にとって、都はあまりにも危険な場所となっていました。蘇我と物部の全面戦争が勃発する直前、彼女は争乱の難を逃れるため、忠実な従者たちと共に都を脱出します。
彼女が目指したのは、大和から遠く離れた日本海側の地、丹後(当時は丹波国の一部)でした。
なぜ「丹後」だったのか? 古代のハイテク地帯
なぜ皇后は、逃避行の先として丹後を選んだのでしょうか。単に「都から遠い僻地だから」という理由だけではありません。
当時の丹後半島は、大陸(朝鮮半島)に最も近い玄関口の一つであり、最新の鉄器文化や養蚕技術がいち早く伝わる「古代の先進地域」でした。 穴穂部間人皇女の実家である蘇我氏は、渡来系氏族と深いつながりを持ち、先進技術や文物を積極的に取り入れることで勢力を拡大していました。つまり、大陸への海路を持ち、渡来文化が色濃い丹後の地は、蘇我氏にとって「隠された友好勢力圏」であった可能性が高いのです。
皇后一行は、険しい山を越え、ようやく現在の京丹後市丹後町にあたる海辺の集落に辿り着きました。 目の前には荒々しくも美しい日本海が広がり、巨大な奇岩がそびえ立つその場所で、彼女はしばしの安息を得ることになります。
村人との絆と「退座」の悲しみ

突然現れた高貴な身分の女性と幼い皇子を、貧しい漁村の人々は驚きつつも温かく迎え入れました。 「都の争いなど、ここには届きませぬ。どうぞご安心してお過ごしください」 村人たちは、自分たちの食料さえ乏しい中、新鮮な魚介や穀物を献上し、献身的に皇后一行の世話をしたと伝えられています。
伝説によれば、皇后はこの地で数年(一説には乱が収まるまでの短期間とも)を過ごしました。 都での権謀術数に疲弊していた彼女にとって、荒波の音を聞きながら村人たちと過ごす日々は、生涯で最も穏やかな時間だったのかもしれません。その証拠に、彼女はこの地で機織りを教えたり、病人を介抱したりしたという伝承も残されています。
やがて、都での争乱(蘇我氏の勝利)が終わり、皇后に帰還の時が訪れます。 別れの日、皇后は村人たちの情け深い計らいに深く感謝し、自らの名である「間人(はしひと)」を、この村の地名として贈りました。 「私の名をこの地に残します。あなたたちの優しさを、私は決して忘れません」
しかし、村人たちは恐縮して言いました。 「皇后様の尊い御名を、そのまま地名として呼び捨てにすることなど、私たちには畏れ多くてできません」
そこで村人たちは知恵を絞りました。 「皇后様がこの地を退(しりぞ)き、大和へ去られた(座を移された)」 その事実にちなみ、漢字は賜った通りの「間人」と書きながら、読み方を「退座」に由来する「たいざ」としたのです。
これが、日本唯一の難読地名「間人(たいざ)」の誕生秘話です。この地名には、高貴な女性への尽きせぬ敬意と、別れの寂しさが永遠に刻み込まれているのです。
現地レポート 皇后の面影を歩く
今も京丹後市丹後町間人には、この伝説を裏付けるようなスポットが点在しています。歴史旅として訪れるべきハイライトをご紹介します。
立岩(たていわ) —— 聖徳太子母子が見上げた巨岩
間人のシンボルとも言えるのが、海岸にそびえ立つ高さ約20メートルの巨大な一枚岩「立岩」です。柱状節理が見事な安山岩の巨岩は、全国屈指の大きさ。 伝説では、ここで幼い聖徳太子や皇后が祈りを捧げたとも、あるいは後に聖徳太子の異母弟である麻呂子親王が鬼退治を行い、鬼をこの岩に封じ込めたとも言われています。 荒波が打ち寄せるこの巨岩の前に立つと、1400年前に皇后も同じ海を見ていたのではないかと、想像が膨らみます。
間人皇后・聖徳太子母子像

立岩を見下ろす高台には、穴穂部間人皇女が幼い聖徳太子を抱く「母子像」が建立されています。その視線は、遠く大和の都の方角を見つめているようでもあり、あるいは大陸の方角を見ているようでもあります。 慈愛に満ちたその表情は、この地が彼女にとって「恐怖の避難場所」ではなく、「温かい思い出の場所」であったことを物語っているようです。
大成(おおなる)古墳群
間人地区のすぐ近くには、海を見下ろす丘陵上に「大成古墳群」があります。ここからは、古代の有力者が埋葬されていたことを示す副葬品が出土しており、この地域が伝説だけでなく、実際に古代から重要な拠点であったことを考古学的に証明しています。 皇后が滞在できたのも、この地を治める有力な豪族(おそらく海運を握る長)の庇護があったからこそでしょう。
冬の味覚「間人ガニ」
歴史ロマンに浸った後は、現代の「間人」の名を全国に轟かせている食の宝についても触れねばなりません。 この地域で水揚げされる松葉ガニは「間人ガニ(たいざがに)」と呼ばれ、幻の高級ガニとして知られています。 小型の底引き網漁船が日帰りで漁を行うため、鮮度が抜群に良く、その甘みと身の詰まりは別格。皇后が食べたのはカニではないかもしれませんが、この豊かな海が古代から人々を養ってきたことは間違いありません。
歴史の「余白」に思いを馳せて
「間人」と書いて「たいざ」と読む。 その一風変わった読み方の中には、文字に残された公式の歴史書(正史)には決して記されることのない、地方の人々と皇族との「心の交流」が隠されていました。
歴史学的に見れば、穴穂部間人皇女の丹後避難は、確たる史料に乏しい「伝説」の域を出ないかもしれません。しかし、1400年以上もの間、この地の読み方を頑なに守り続けてきた地元の人々の想いこそが、何より確かな「歴史の真実」ではないでしょうか。
もし京都を旅することがあれば、煌びやかな京都市内の寺社だけでなく、ぜひ海の京都・丹後へと足を伸ばしてみてください。 立岩に打ち寄せる波音の中に、遠い飛鳥の世を生きた母子の、静かな息遣いが聞こえてくるかもしれません。
【アクセス方法】
- スポット名: 京都府京丹後市丹後町間人(たいざ)
- アクセス:
- 車: 京都縦貫自動車道「宮津天橋立IC」から約45分。
- 公共交通: 京都丹後鉄道「網野駅」または「峰山駅」下車、丹後海陸交通バスにて「間人」バス停下車。


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