【神明山古墳・竹野神社】古代丹波の女王・竹野媛命。ヤマトへ嫁ぎ、神として帰還した「鉄と海」の巫女

丹波・丹後
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京都府の最北端、丹後半島。この地には、畿内の大王墓に匹敵する、巨大な前方後円墳がいくつも存在することをご存知でしょうか。

いわゆる「丹後三大古墳」と呼ばれるこれら古墳群の存在は、かつてこの地に、ヤマト王権と対等に渡り合うほどの強大な勢力――「丹波王国」が存在したことを語っています。

その中の一つ、日本海を眼下に望む「神明山古墳(しんめいやまこふん)」。全長190メートルを誇るこの墓の主と目されているのが、第9代開化天皇の妃となった女性、竹野媛命(たかのひめのみこと)です。

通常、天皇の妃となれば、その骨はヤマトの地に埋もれるのが通例です。しかし、彼女はなぜ晩年に故郷・丹波へ戻り、この巨大な墳墓に眠ることになったのでしょうか。そこには、単なる「里帰り」では片付けられない、古代国家形成期におけるヤマトと丹波の、緊迫した政治と祭祀のドラマが隠されていました。

今回は、文献史学と考古学、そして現地に残る伝承から、古代丹波の女王・竹野媛命の実像と、彼女が背負った謎に迫ります。


幻の強国「丹波王国」と大県主・由碁理

ヤマトを凌駕する「海」と「鉄」の支配者

竹野媛命の物語を紐解く前に、彼女が生まれ育った「丹波」という土地の特異性を理解する必要があります。

現在の京都府北部(丹後・丹波)から兵庫県北部にまたがるこの地域は、古代においては日本海交易の最重要拠点でした。大陸(朝鮮半島)からもたらされる「鉄」や先進技術は、海流に乗ってまずこの地へ到達し、そこから陸路・水路を通じて大和盆地へと運ばれました。

その証拠となるのが、丹後半島に集中する巨大古墳群です。

  • 網野銚子山古墳(全長約201m):日本海側最大
  • 神明山古墳(全長約190m):竹野媛命の墓説が有力
  • 蛭子山古墳(全長約145m)

これらは4世紀から5世紀にかけて築造されたもので、同時代のヤマト王権の大王墓(佐紀盾列古墳群など)に次ぐ規模を誇ります。地方の一豪族が築けるレベルを遥かに超えており、当時の丹波勢力が、ヤマトにとって無視できない、あるいは同盟を結ばざるを得ない「王国」であったことを証明しています。

父は「大県主」由碁理

この強大な丹波勢力を束ねていたのが、竹野媛命の父である由碁理(ゆごり)です。 『古事記』には、彼の肩書きが「旦波之大縣主(たにわのおおあがたぬし)」と記されています。「県主(あがたぬし)」は地方首長の称号ですが、それに「大」が付く例は極めて稀です。これは、彼が単なる一地域の長ではなく、広域を統括する「大王」クラスの権力者であったことを、ヤマト側も認めざるを得なかった証と言えるでしょう。

また、丹後一宮・籠神社に伝わる国宝『海部氏系図(勘注系図)』によれば由碁理は別名を建諸隅命(たけもろずみのみこと)とも言い、尾張氏の祖神・天火明命(アメノホアカリ)の系譜に連なるとされます。「尾張」と「丹波」を結ぶ、巨大な海人族ネットワークの頂点に立つ人物だったのです。


開化天皇妃としての竹野媛命 政略結婚の裏側

「鉄の同盟」としての人質

第9代開化天皇の時代、ヤマト王権は奈良盆地周辺の統合を終え、次なる拡大を目指していました。その最大の課題は、武器や農具の素材となる「鉄」の安定確保です。 日本海ルートを掌握する丹波の由碁理との同盟は、ヤマトにとって死活問題でした。そこで成立したのが、開化天皇と、由碁理の娘・竹野媛命との政略結婚です。

『古事記』には彼女が産んだ御子として比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)の名が見えます。 一方、『日本書紀』では彼女は「皇后」ではなく「妃」という序列に置かれています。正后の座は物部氏系の伊香色謎命(いかがしこめ)が占めており、ここには「軍事の物部氏」と「海洋・経済の丹波氏」の間で揺れ動く、ヤマト王権内のパワーバランスが見て取れます。

誤解される「帰郷」の理由

竹野媛命については、「年老いて美しくなくなったため送り返された」という悲劇的な伝承と混同して語られることがよくあります。しかし、これは後の第11代垂仁天皇の時代、同じく丹波から入内した「丹波道主命の娘たち(円野比売など)」のエピソードであり、竹野媛命の話とは区別して考えるべきです。

彼女の帰郷は、単なる離縁や隠居ではありませんでした。それは、ヤマトと丹波の関係を決定的に変える、ある「重大なミッション」を帯びた帰還だったのです。


神明山古墳が語る「女王」の威厳

日本海を見晴らす絶景の聖地

京丹後市丹後町、竹野川の河口東岸にある台地の上に、神明山古墳は築かれています。 全長190m、後円部の高さ26m。三段築成の見事な前方後円墳です。

特筆すべきはその立地です。墳丘の主軸は海岸線と平行しており、かつて日本海を行き交った船からは、この巨大な墓がランドマークとして仰ぎ見られたはずです。 出土した円筒埴輪は「丹後型」と呼ばれる独特のものであり、さらに「舟を漕ぐ人物」を描いた線刻画のある埴輪片も見つかっています。被葬者が、海運を掌握し、海と共に生きた一族の長であったことは疑いようがありません。

考古学と伝承の接点

この古墳の築造時期は4世紀末から5世紀初頭と推定されています。開化天皇の時代(3世紀後半〜4世紀前半)とは少々のズレがありますが、竹野媛命が長命で晩年に帰郷し、その死後に一族の総力を挙げて築造されたと考えれば、年代的な矛盾は解消されます。

ヤマトの大王墓に匹敵するこの古墳に彼女が眠っているという事実は、丹波がヤマトに完全に屈服したのではなく、「半独立」の高いステータスを維持していたことを示唆しています。


竹野神社の「斎宮」 彼女が持ち帰ったもの

神明山古墳の近くに鎮座する「竹野神社(たかのじんじゃ)」。こここそが、竹野媛命の物語の核心に触れることができる場所です。

天照大神を祀るという意味

社伝によれば、帰郷した竹野媛命は、この地で「天照皇大神」を奉斎したと伝えられています。 これは極めて政治的かつ宗教的な意味を持ちます。

元来、丹波地方には「豊受大神」や「天火明命」といった神々が存在しました。そこへ、ヤマト王権の皇祖神である天照大神を持ち込み、祀る。 これは、彼女が「ヤマト王権の祭祀的代理人(斎宮のような存在)」として帰郷したことを意味します。武力で制圧するのではなく、ヤマトの最高神を現地の信仰体系の中に植え付けることで、精神的な統合を図る。竹野媛命は、そのための「生きた依代」だったのです。

征服者との奇妙な同居

竹野神社の境内摂社である「斎宮(いつきのみや)神社」の祭神構成を見ると、さらに興味深い事実が浮かび上がります。

  • 竹野媛命(在地の王女)
  • 日子坐王命(ひこいますのみこと)(開化天皇の皇子)
  • 建豊波豆羅和気命(開化天皇の皇子)

ここで注目すべきは日子坐王命です。彼は『古事記』において、崇神天皇の命を受け、丹波に派遣されて土着の首長「玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)」を討伐した英雄、つまり丹波にとっての「征服者」です。


歴史旅ガイド 竹野媛命の足跡を歩く

竹野媛命と丹波王国のロマンに触れる旅へ。現地の主要スポットへのアクセス情報です。

竹野神社(たかのじんじゃ)

竹野媛命が天照大神を祀ったと伝わる古社。境内には「斎宮神社」があり、神明山古墳の模型や資料も展示されています。

  • 住所: 京都府京丹後市丹後町宮245
  • グーグルマップの位置情報
  • アクセス:
    • 【車】山陰近畿自動車道「京丹後大宮IC」から約40分。
    • 【公共交通】京都丹後鉄道「峰山駅」下車、丹後海陸交通バス(海岸線・経ヶ岬行き等)に乗り換え約30分、「竹野」バス停下車すぐ。

神明山古墳(しんめいやまこふん)

竹野神社の裏手に位置する巨大前方後円墳。墳丘に登ることができ、そこからの日本海の眺望は必見です。

  • アクセス: 竹野神社から徒歩約10分。神社の脇から登り口があります。
  • 注意点: 足元が滑りやすい場所があるため、歩きやすい靴推奨。夏場は虫除け対策を。

立岩(たていわ)

麻呂子親王が鬼を封じ込めたと伝わる、高さ20mの巨大な柱状節理の一枚岩。竹野川河口の海岸にあり、神明山古墳からも見えます。

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