愛媛県伊予郡松前町。道後平野の南端、肥沃な田園地帯に鎮座する高忍日賣神社(たかおしひめじんじゃ)をご存知でしょうか。
ここは唯一「産婆(助産師)・乳母の祖神」である高忍日賣大神(たかおしひめのおおかみ)を主祭神として祀っています。
「安産祈願」で有名な神社は数多くありますが、ここは少し毛色が違います。 通常の安産信仰が「穏やかな出産」を願うのに対し、この神社には「出産現場における、ある壮絶な戦い」の記憶が神話として刻まれているのです。
その戦いの武器は「剣」ではなく「ホウキ」。 そして敵は、海からやってくる「カニ」。
一見すると童話のようにも聞こえるこの「カニとホウキの神話」を紐解いていくと、古代日本の医療事情や、朝廷に仕えたある専門職能集団の姿が浮かび上がってきます。今回は、歴史の謎と生命の神秘が交差する、高忍日賣神社の深層へご案内します。
記紀神話の「ミッシングリンク」 産屋を襲う危機

まずは、神話の舞台設定から確認しましょう。 ベースとなっているのは、『古事記』『日本書紀』にも記されている、山幸彦(やまさちひこ)と豊玉姫(とよたまひめ)の出産場面です。
海神の娘である豊玉姫は、出産のために海から陸へと上がり、急いで産屋(うぶや)を作ります。しかし、屋根を鵜の羽で葺き終わらないうちに産気づいてしまいます。ここで生まれたのが、初代神武天皇の父となる「ウガヤフキアエズ命」です。
ここまでは正史と同じ。しかし、高忍日賣神社の社伝には、この瞬間に起きた「緊急事態」が記されています。
産屋の屋根も葺き合わず、いま正に御子が生まれんとするその時、海から無数の「蟹(カニ)」が這い上がり、産屋に侵入して母子を害そうとした。
想像してみてください。神聖な出産の場に、カサカサと音を立てて無数のカニが押し寄せる光景を。これは単なる物理的な恐怖だけでなく、「異界(海)からの穢れ」や「魔物」の侵入を象徴する、最大級の危機的状況です。
「掃守(かにもり)」の誕生 なぜホウキなのか?

この絶体絶命のピンチに、豊玉姫は「高忍日賣大神」に助けを求めました。 大神は直ちに、以下の三柱の神々を現場へ派遣します。
- 天忍日女命(あめのおしひめのみこと): 産屋に入り、直接出産を介助する(産婆の役割)。
- 天忍男命(あめのおしおのみこと): 男性の力で守りを固める。
- 天忍人命(あめのおしひとのみこと): ホウキを作ってカニを掃き出す。
ここで注目すべきは、天忍人命による「ホウキでの掃き出し」です。 彼はカニを退治するために、剣で斬るのではなく、ホウキで「掃き清めた」のです。
「カニ」と「カニムシ」の言葉遊び?
なぜホウキだったのか? そして、なぜ敵はカニだったのか? この謎を解く鍵は、古代の職能氏族「掃守(かにもり/ははきもり)」の存在にあります。
「掃守」とは、宮中の清掃や儀礼、そして出産時の産屋の設営・清めを担当した役職です。 この「かにもり」という言葉は、本来「蟹守」とも表記され、「カニ(=穢れや外敵)から守る」という意味と、「掃き守る(清掃する)」という意味が重なっています。
つまり、この神話は、「出産という穢れやすい空間を、ホウキという呪具を用いて清浄化(サニワ)する」という、古代の防疫技術や呪術的な衛生管理のプロセスを物語化しているのです。 カニは「排除すべき不浄なもの」のメタファーであり、ホウキは「神聖な清めの武器」だったのです。
皇室とつながる「忍(オシ)」の系譜
神話の面白さだけでなく、この神社の歴史的地位の高さにも触れておきましょう。
鎮座地周辺からは、「月陵(つきのみささぎ)」と呼ばれる大型古墳や、三角縁神獣鏡が出土した古墳などが密集しています。これは、古代においてこの地域(伊予国)が強力な豪族によって支配されていたことを示しています。
また、平安時代の『延喜式神名帳』にもその名が記される「式内社」であり、当時すでに朝廷から幣帛を受けるほどの実力を持っていました。
祭神名にある「忍(オシ)」という言葉は、「威圧する」「耐え忍ぶ」「押し切る」といった強いエネルギーを意味し、古代の天皇家や有力氏族の名にも多く見られます(例:天忍穂耳命など)。 「高忍日賣」という名は、出産という苦痛に耐え、新しい生命を力強く押し出す女性の生命力を神格化したものと言えるでしょう。
昭和の時代には、現在の島津貴子様(昭和天皇の第五皇女)ご生誕の際、皇室専属の産婆より当神社へ安産祈願の依頼があったという記録も残っています。これは、近代になってもなお、「プロフェッショナル(産婆)たちの守護神としての権威が維持されていた証左です。
境内の見どころ 参拝者が実践するユニークな儀礼
歴史の深さを知ったところで、実際に参拝した際に体験できる、ユニークな信仰の形をご紹介します。

石の倍返し「うぶすな様」
本殿の裏手にひっそりと佇む「うぶすな様」。ここは土地の守り神ですが、独特の願掛けルールがあります。
- うぶすな様に置いてある「願い石」を一つ借りて帰る。
- その石を持ったまま、後述する「連理の枝」をくぐる。
- 願いが叶ったら、借りた石に、自分で拾った新しい石を一つ添えて(つまり倍にして)返す。
この「倍返し」の風習により、神域の石は減るどころか増え続けています。受けた恩を増幅して返すという、日本人の義理堅さと感謝の心が形になった儀礼です。
縁結びの奇跡「連理の枝(れんりのえだ)」
境内の西側にある、クスノキなどの木々が空中で枝を結合させている自然現象です。 「連理」とは夫婦の深い絆のこと。ここをくぐることで、良縁や夫婦円満、子授けのパワーが得られるとされ、若いカップルにも人気のスポットとなっています。
樹齢千年の霊気「産婆杉(うんばすぎ)」
本殿の東側には、巨大な杉の木があります。古来より「産婆さんの杉」として親しまれ、この木に触れると安産や子供の成長のご利益があるとされています。
現代における「高忍日賣神社」の楽しみ方
厳かな歴史を持つ神社ですが、現代的な感覚も積極的に取り入れています。
- 風鈴回廊: 夏には聖徳太子伝説(疫病退散の風鐸)にちなんだ風鈴が飾られ、涼やかな音色が境内を包みます。
- 限定御朱印: 季節ごとの草花や行事をモチーフにした切り絵御朱印など、デザイン性の高い御朱印が人気です。
- 助産師守: 一般的な安産守に加え、医療従事者向けの「助産師守」という珍しいお守りも頒布されています。
命の現場を守り続ける「強き母性」の社
高忍日賣神社が伝える「カニとホウキ」の神話。 それは、荒唐無稽なお伽話ではなく、医療技術が未発達だった時代に、「どうにかして母子の命を守りたい」と願った古代の人々の、切実な祈りと知恵の結晶でした。
ホウキでカニを追い払う姿は、現代の医療現場でウイルスやリスクと戦う医師や助産師たちの姿と重なります。
歴史好きの方は古代氏族の謎解きに、現在妊娠中の方や医療従事者の方は心の支えを求めて、ぜひ一度この「日本唯一」の聖地を訪れてみてはいかがでしょうか。
【高忍日賣神社(たかおしひめじんじゃ)基本情報】
- 住所: 愛媛県伊予郡松前町大字徳丸387番地
- グーグルマップの位置情報
- アクセス:
- 【電車】JR予讃線「北伊予駅」より徒歩約10分
- 【車】松山自動車道「松山IC」より約10分(無料駐車場約20台あり)
- 主なご利益: 安産、子育て、良縁、厄除け
- 備考: 助産師特別祈願なども行われています。

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