能登半島の入り口、石川県羽咋(はくい)市。 UFOの町としても知られるこの場所ですが、歴史好きにとって見逃せないのが、市名の由来そのものとなった古社「羽咋神社(はくいじんじゃ)」です。
一見すると街中にある静かな神社ですが、ここには古代ヤマト王権が能登を平定していった激しい歴史と、近代に入ってから国家権力によって聖地を追われたという、数奇な運命が隠されています。
今回は、文献調査と現地取材に基づき、羽咋神社の「怪鳥退治伝説」から「古墳と神社の分離」というドラマチックな歴史、そして全国的にも珍しい「出世相撲」まで、その全貌をひもといていきます。
「羽を食う」 地名に刻まれた怪鳥退治伝説
まず、羽咋神社の最大の特徴であり、羽咋市のアイデンティティとも言えるのが「社名の由来」です。これは単なる言葉遊びではなく、古代の能登平定の歴史を物語る重要な神話です。
領民を襲う「大毒鳥」の恐怖
かつてこの地には、巨大な「怪鳥(大毒鳥)」が棲み着いていました。この鳥はただ大きいだけでなく、口から毒の火を吐き、領民を襲っては食らうという恐ろしい存在でした。人々は恐怖に怯え、農耕もままならない状態が続いていました。
この窮状を救うために都から派遣されたのが、第11代垂仁天皇の第10皇子、磐衝別命(いわつくわけのみこと)です。
三匹の犬と皇子の戦い

磐衝別命は、単身で挑んだわけではありません。彼には頼もしい相棒がいました。「三匹の犬」です。 伝承によれば、皇子は犬たちを指揮して怪鳥に挑みました。激しい戦いの末、犬たちが怪鳥の「羽」に食らいつき、その動きを封じたところを皇子がとどめを刺したと伝えられています。
- 犬が鳥の羽(は)に食(く)いついた。
- 羽喰(はくい) = 羽咋(はくい)
これが「羽咋」という地名の起源とされています。 この伝説は、単に「悪い鳥を退治した」という昔話にとどまりません。歴史学的な視点で見れば、これは「中央(ヤマト王権)による地方の平定」を象徴しています。「怪鳥」とは、当時の朝廷に従わなかった現地の豪族や、あるいは河川の氾濫(暴れる自然)を比喩的に表現したものとも考えられます。
皇子はその後、この地の開拓と農業振興に尽力したとされ、まさに能登の文明化の祖として祀られているのです。
古墳の上に鎮座していた社殿 聖地の移動史
羽咋神社を語る上で避けて通れないのが、その鎮座地の変遷です。実は、現在私たちが目にする社殿の位置は、大正時代になってから定まったものです。それ以前、神様はもっと「高い場所」にいました。
磐衝別命の墓「御陵山古墳」

神社のすぐ裏手には、「御陵山(ごりょうやま)古墳」(大塚古墳)と呼ばれる巨大な前方後円墳が存在します。全長約100メートルにも及ぶこの古墳は、古くから祭神である磐衝別命の墓(御陵)であると信じられてきました。
特筆すべきは、中世(文明年間頃)から明治・大正に至るまで、「この古墳の墳丘の上に羽咋神社の社殿が建っていた」という事実です。 古代の英雄の墓の上に、その霊を祀る神社が建つ。これは「祖霊信仰」と「神社神道」が物理的に一体化した、極めて強力な聖地形態でした。
国家による「立ち退き」命令
しかし、この密接な関係は近代に入って終わりを迎えます。 明治以降、政府は天皇陵や皇族の墓の管理を厳格化しました。そして大正6年(1917年)、御陵山古墳が宮内省(現・宮内庁)によって「陵墓参考地」に指定されたのです。
これにより、古墳は「国家が管理する聖域」となり、その上に地元の神社が建っていることは許されなくなりました。結果として、羽咋神社は古墳の上から強制的に退去(遷座)せざるを得なくなったのです。
聖性を繋ぐための遷座
現在の社殿は、古墳の後円部の南麓に鎮座しています。当時の人々は、単に場所を移したわけではありません。「祭神の眠る墓(古墳)から、物理的に最も近い場所」を選んで社殿を建て直しました。 拝殿の奥にある本殿を見上げると、その背後にはこんもりとした森(古墳)が迫っています。これは、社殿が移動させられてもなお、御陵との精神的なパイプを維持しようとした、地域の人々の信仰の強さの表れと言えるでしょう。
国造りの息子 もう一つの「皇族の墓」

羽咋神社の祭神は、怪鳥退治をした磐衝別命だけではありません。その遺志を継ぎ、この地を実際に統治した息子の石城別王(いわきわけのみこと)も並んで祀られています。
境内には父の墓(御陵山)だけでなく、この息子・石城別王の墓とされる「大谷塚(大谷古墳)」も存在します。 この大谷塚もまた宮内庁によって「陵墓参考地」に指定されています。
地方の一都市に、天皇の皇子と孫、親子2代の墓が「陵墓」として国に認定され残っている。これは全国的に見ても非常に珍しいことです。
唐戸山神事相撲 勝者が「親方」になるシステム
羽咋神社の例大祭(9月)に合わせて行われる「唐戸山(からとやま)神事相撲」もまた、歴史的に極めて重要な民俗行事です。現在は石川県の無形民俗文化財に指定されています。
篝火の下で行われる野相撲
この相撲の起源は、磐衝別命の命日を偲んで行われたものとされ、約2000年の歴史があると伝えられています。 特徴的なのはその形式です。現代の大相撲のような明るい照明の下ではなく、夜間、土俵の四隅に篝火(かがりび)を焚いて行われます。闇の中で揺らめく炎に照らされた力士たちの姿は、まさに神事としての相撲(神へ力を奉納する儀式)の原風景を今に伝えています。
相撲に勝って「出世」する
この神事相撲の最大の特徴は、「水無し、塩無し、待った無し」という厳格なルールの下で行われる真剣勝負であり、そして何より「出世相撲」であるという点です。
この大会で結びの一番に勝ち、大関の位を獲得した力士には、以下の特典が与えられます。
- 羽咋神社拝殿での正式参拝:神から直接祝福を受ける。
- 大幣帛と高張提燈の授与:神威を宿した神器を持ち帰る。
- 「親方」の称号:地域社会における名誉ある地位。
かつて、ここで勝つことは単なるスポーツの優勝以上の意味を持っていました。神に認められた「強者」として、地域社会での発言権やリーダーシップを得ることと同義だったのです。 神社の祭りが、地域の社会階層や秩序を決定する機能を持っていた—。唐戸山神事相撲は、そんな古代社会のシステムを現代に残す貴重なタイムカプセルなのです。
アクセス・基本情報
基本情報

- 名称:羽咋神社(はくいじんじゃ)
- 住所:〒925-0033 石川県羽咋市川原町エ164
- グーグルマップの位置情報
- 御祭神:磐衝別命(いわつくわけのみこと)、石城別命(いわきわけのみこと)
- 旧社格:式内社(小)、県社
アクセス方法
公共交通機関でのアクセスが非常に良好です。
- 電車の場合: JR七尾線「羽咋駅」下車、徒歩約5分。 駅を出て大通りを北へ進むと、すぐに鎮守の杜が見えてきます。
- お車の場合: のと里山海道「千里浜IC」または「柳田IC」から約10分。 ※駐車場は境内に数台分ありますが、例大祭などの混雑時は近隣の公共駐車場をご利用ください。

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