【百襲姫伝説】香川に残る倭迹々日百襲姫命の「開拓王」伝説と聖地巡り

香川県
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奈良県桜井市にある巨大な前方後円墳「箸墓古墳」。 日本最古級のこの古墳の被葬者とされるのが、第7代孝霊天皇の皇女、倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと/以下、百襲姫)です。

『日本書紀』における彼女の姿は、神秘的でありながら悲劇的です。三輪山の大物主神(大蛇)の妻となり、その正体を見て驚いたショックで箸が陰部に刺さって亡くなる――。その最期はあまりにも衝撃的で、彼女はあくまで「神に仕え、翻弄された巫女」としての印象を強く残しています。

しかし、視点を瀬戸内海の対岸、讃岐国(香川県)へと移すと、異なる彼女の姿が浮かび上がってきます。

そこでの彼女は、ただ祈るだけの存在ではありません。 幼くして海を渡り、自らの手で着物の袖を引きちぎって泥にまみれ、暴れる川を治め、弟である吉備津彦命(桃太郎のモデル)に軍事指令を出す。 そう、讃岐における百襲姫は、古代の技術者であり、戦略家であり、国を切り拓いた「偉大なる統治者(リーダー)」なのです。

今回は、香川県東部から中部にかけて残る数多くの伝承と史跡を巡りながら、教科書には載っていない「もう一人の百襲姫」の足跡を追う歴史旅へご案内します。


決意の上陸と「袖もぎ」の覚悟(東かがわ市)

百襲姫の物語は、現在の東かがわ市引田(ひけた)にある「安戸(あど)の浦」から始まります。

安戸の浦と艪掛神社

艪掛神社

伝承によれば、姫を乗せた船団は、長い航海の末にこの穏やかな入り江に漂着しました。一行がようやく「安堵(あんど)」したことから「安戸」の地名が生まれたと伝えられています。 近くにある「艪掛(ろかけ)神社」は、船旅を終えた船人たちが、船の推進具である「艪」を松の木に立て掛けて休めた場所とされています。これは、彼女たちが一時的な訪問者ではなく、この地で船を降り、陸路での定住を決意したことを象徴しています。

袖神社の衝撃的な儀式

上陸直後、姫の強烈な個性を物語るエピソードが、東かがわ市大谷地区にある「袖神社」に残されています。

暑さと疲労の中、姫は身繕いをしようとしますが、動きにくい都の着物の長い袖が邪魔になりました。そこで彼女はどうしたか。なんと、自らその美しい袖を引きちぎり、投げ捨ててしまったのです。

これは単なる暑さ対策ではありません。 「私はもう、御殿の中で座っているだけの皇女ではない。この未開の地で、民と共に汗を流して生きるのだ」 そんな「労働者・生活者への転身」を宣言する、一種の通過儀礼だったのではないでしょうか。地元の人々がこの場所を神社として祀り続けたのは、高貴な姫が見せたこの「覚悟」に心を打たれたからに他なりません。


水主神社と「大ナマズ退治」の真実

袖を捨てた姫が拠点としたのが、現在の東かがわ市大内町にある「水主(みずし)神社」です。彼女はこの地で成長し、讃岐平野の最大の課題である「水」と向き合います。

7歳での渡来と成長

水主神社の社伝には、姫が「7歳で大和を出て、8歳でこの地に着いた」という記述があります。これが事実なら、彼女は自らの意志というよりは、大和での政変や争乱(いわゆる倭国大乱や卑弥呼死後の混乱など)を避けるために、母方の実家がある淡路島ルートを通って疎開してきた可能性があります。 少女はここで成人し、やがて卓越した霊能力と知識を発揮し始めます。

大ナマズ退治=治水工事のメタファー

この地には、非常に興味深い伝説があります。 「姫が保田池で足を洗っていると、大ナマズが現れて噛みついた。激怒した姫が水を蹴り上げると堤が切れ、池の水が溢れ出して干上がり、肥沃な陸地となった

一見、荒唐無稽な怪獣退治の話ですが、歴史ミステリーの視点で読み解くと、これは高度な「土木工事」の記録に見えてきます。

  • 大ナマズ: 制御不能な河川の氾濫や、湿地帯を支配する土着の勢力。
  • 水を蹴って堤を切る: 意図的な排水(干拓)や流路変更を行い、湿地を農地に変える開拓事業。

雨が少なく大きな川がない讃岐において、「水を操る技術」は魔法にも等しい力でした。彼女は巫女としての雨乞いだけでなく、物理的な水利技術(灌漑やため池の築造)をもたらした「技術集団の長」だったからこそ、神として崇められたのです。


中讃への進出と人工の山「船岡山」

東讃地域で基盤を固めた百襲姫は、より広い耕作地を求めて西へ、現在の高松市南部へと進出します。この移動もまた、大規模なプロジェクトでした。

船山神社の驚くべき伝承

高松市仏生山町にある「船山神社。ここの御神体である「船岡山」には、信じがたい伝承があります。 なんとこの山は、南にある巨大なため池「船岡池」を掘削した際の残土を積み上げて造られた人工の山だというのです。

古墳時代前期に、山を一つ造るほどの大規模な土木工事が行われていた。これは、百襲姫に従っていた集団が、極めて高度な土木技術を持っていたことの証明です。彼女の移動は、単なる引っ越しではなく、国土そのものを改造しながら進む「国家建設」の旅だったのです。


讃岐一宮・田村神社と「ヒメ・ヒコ制」の完成

百襲姫の旅の終着点であり、讃岐における信仰の頂点が、高松市一宮町にある讃岐國一宮「田村神社」です。

定水大明神としての神格化

田村神社の最大の特徴は、奥殿の床下にある決して涸れることのない深淵(湧き水)です。この水は「定水(さだみず)」と呼ばれ、讃岐平野の農業を支える生命線でした。 百襲姫はここで「定水大明神」として祀られています。もはや彼女は人間ではなく、水を支配する龍神、あるいは水を司る女神そのものとして、永遠の存在となりました。

桃太郎を動かす「姉」の威光

境内のご案内 | 讃岐國一宮 田村神社

田村神社の境内には、百襲姫と、その弟である五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと=吉備津彦命)の銅像が立っています。 吉備津彦命といえば、あの「桃太郎」のモデルとして有名ですが、この銅像の構図が非常に面白いのです。

中央に立つのは姉の百襲姫。手には「きび団子(黄金の団子)」を持っています。 その横で弟の吉備津彦が、犬・猿・雉を従え、姉からの指令を受けているのです。

ここに見えるのは、古代日本の統治システム「ヒメ・ヒコ制」の典型例です。

  • ヒメ(百襲姫): 祭祀を行い、神の託宣(予知・戦略)を受け、兵站(きび団子)を管理する最高権威者。
  • ヒコ(吉備津彦): 姉の指令を受け、実際に武力を行使して鬼(海賊や敵対勢力)を退治する軍事司令官。

桃太郎伝説の影には、実は彼をプロデュースし、支え続けた偉大な姉の存在があった。讃岐の伝承は、そんな歴史のロマンを教えてくれます。


箸墓には眠っていない?

『日本書紀』では大和で悲劇的な死を遂げたとされる百襲姫ですが、讃岐には「天寿を全うした」「この地で安らかに眠った」という伝承も根強く残っています。船山古墳など、彼女の墓ではないかと噂される場所も県内に点在しています。

彼女は本当に大和へ帰ったのか、それとも愛する讃岐の地で、自らが拓いた豊かな平野を見守りながら生涯を閉じたのか。 香川県ののどかな田園風景の中に点在する神社を巡ると、記紀の記述だけが真実ではないのだと、肌で感じることができます。

うどん県として有名な香川ですが、次はぜひ「古代の女性リーダー・百襲姫」の足跡を辿る旅に出かけてみてはいかがでしょうか。


スポット情報・アクセス

水主神社(みずしじんじゃ)

姫が幼少期から成人までを過ごした最初の拠点。境内には姫が使用した石船や、弘法大師ゆかりの閼伽井も残ります。

  • 住所: 香川県東かがわ市大内町水主1418
  • アクセス(車): 高松自動車道「白鳥大内IC」より約10分。
  • アクセス(公共交通): JR高徳線「三本松駅」よりタクシーで約10分。
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田村神社(たむらじんじゃ)

讃岐國一宮。百襲姫を主祭神とし、龍神伝説が残る神秘的な神社。日曜市うどんも有名です。

  • 住所: 香川県高松市一宮町286
  • アクセス(車): 高松自動車道「高松西IC」または「高松中央IC」より約15分。
  • アクセス(公共交通): 高松琴平電気鉄道(琴電)琴平線「一宮駅」より徒歩約10分。
  • Google Maps: [位置情報をみる]

船山神社(ふなやまじんじゃ)

人工の山とされる「船岡山」をご神体とする神社。古墳ファンにもおすすめのスポット。

  • 住所: 香川県高松市仏生山町甲1147
  • アクセス(車): 高松市内中心部より約20分。
  • アクセス(公共交通): 琴電琴平線「仏生山駅」より徒歩約15分。
  • Google Maps: [位置情報をみる]
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