石川県中能登町、眉丈山系「雷が峰(いかづちがみね)」。 眼下に邑知潟(おうちがた)を見下ろすこの天空の尾根に、能登最大級の「王墓」と、延喜式内社「天日陰比咩(アメノヒカゲヒメ)神社」が並んで鎮座しています。
なぜ、王の眠る場所に女神が祀られたのでしょうか。そして、そこから出土した大量の「鉄」は何を意味するのでしょうか。 本稿では、国指定史跡「雨の宮古墳群」を舞台に、考古学的な実証と古事記の伝承を重ね合わせ、能登王権の黎明期に隠された「政治と祭祀のドラマ」を紐解いていきます。
「雷が峰」の覇者 二つの墳形が語る転換点
雨の宮古墳群の大きな特徴は、同じ尾根筋に「前方後方墳(1号墳)」と「前方後円墳(2号墳)」という、異なる政治的メッセージを持つ巨大古墳が並立している点にあります。
独自路線の象徴 1号墳(前方後方墳)
4世紀中頃、最初に築かれた1号墳は、全長約64mの北陸最大級の前方後方墳です。当時、前方後方墳は東海・濃尾・北陸地方で多く見られ、ヤマト王権(前方後円墳体制)とは一定の距離を置く、あるいは対等な同盟関係にある地域勢力が好んで採用した形式でした。 この被葬者は、ヤマトに完全に服属する以前の、能登独自の強大な「地域王」であったと考えられます。
ヤマト同盟への参画 2号墳(前方後円墳)
しかし、その直後に築かれた2号墳は、ヤマト王権の正統なシンボルである前方後円墳へと姿を変えました。 この劇的な変化は、1号墳の被葬者の時代から次代へ移行する過程で、能登王権がヤマトとの決定的かつ不可逆的な同盟関係――あるいは政治的統合――を受け入れたことを、如実に物語っています。
鉄の武人とヒメ・ヒコ制の投影

1号墳からの出土品は、この「能登の王」が単なる農耕祭祀王ではなく、強大な軍事力を背景にした「鉄の武人」であったことを証明しています。
- 方形板革綴短甲(ほうけいばんかわとじたんこう): 当時、畿内中枢が独占していた最先端の鉄製防具。
- 大量の鉄鏃・鉄剣: 圧倒的な武力の誇示。
ここで注目したいのが、現在、古墳の傍らに鎮座する「天日陰比咩(アメノヒカゲヒメ)」の存在です。かつてこの地には、男神である「伊須流岐比古(イスルギヒコ)」も共に祀られていたと伝えられています。
「ヒメ・ヒコ制」の実像
古代日本の首長権は、政治・軍事を司る男王(ヒコ)と、祭祀・霊的守護を司る女王・巫女(ヒメ)がペアとなって統治する「ヒメ・ヒコ制」が一般的でした。 雨の宮の光景は、まさにこの統治構造を具現化していると言えるでしょう。
- ヒコ(男王): 1号墳に眠る、鉄の鎧を纏った軍事・政治的指導者。
- ヒメ(女王): その霊を鎮め、土地の豊穣と王権の霊的守護を担う天日陰比咩。
すなわち、天日陰比咩神社は、単なる後世の神社ではなく、1号墳の被葬者(王)を霊的に支えたパートナー、あるいはその祭祀を継承した集団による「王家守護の聖域」として始まった可能性が高いのです。
皇子「大入杵命」伝承の真実
『古事記』や地元伝承は、この被葬者の正体について重要なヒントを与えています。それは、第10代崇神天皇の皇子、大入杵命(オオイラツヒコノミコト)です。
伝承によれば、大入杵命は能登を平定し、この地を治めたとされています。宮内庁治定の墓は麓にありますが、考古学的な規模と「王としての威信」を考慮すれば、山上の雨の宮1号墳こそが、実質的な「大入杵命(あるいはそのモデルとなった人物)」の墓であることは想像に難くありません。

統合のメカニズム 入り婿による平和的併合
ヤマトから派遣された皇子(大入杵命)が、在地の有力な女神(天日陰比咩=在地首長の娘や巫女)と結ばれるという神話構造は、古代における典型的な「平和的併合」の暗喩と言えます。 ヤマト王権は、武力による征服だけでなく、鉄や先進技術(短甲)という「実利」と、婚姻や神話の共有という「融和」を駆使して、能登という強力な海洋勢力を自らのシステムに組み込んでいったのでしょう。
「鉄」と「船」 邑知潟の地政学
なぜ、ヤマト王権はこれほどまでに能登を重視したのでしょうか。その答えは、古墳群が眼下に見下ろす「邑知潟」にあります。 かつて海とつながる巨大な入り江であった邑知潟は、大陸や朝鮮半島から日本海を経由してやってくる文物を迎え入れる、天然の良港でした。
- 鉄の輸入ルート: 朝鮮半島産の鉄素材を入手する玄関口。
- 製鉄インフラの掌握: 天日陰比咩神社の配祀神「屋船久久能智命(ヤフネククノチノミコト)」は、船と木の神です。これは「製鉄燃料(木炭)」と「輸送(船)」の支配を暗示しています。
雨の宮の王は、この物流拠点を押さえることで、北陸全域への鉄供給をコントロールできる立場にありました。だからこそ、ヤマト王権にとって彼は、北方の防衛と交易の要として、最新鋭の甲冑を与えてでも味方につけなければならない「同盟者」だったのです。
神話として昇華された歴史
雨の宮古墳群と天日陰比咩神社の並立は、考古学的な「鉄の王」が、長い時間をかけて神話的な「神」へと昇華されていくプロセスを今に伝えています。
雷が峰に立つとき、私たちは単なる風景を見ているのではありません。 そこにあるのは、4世紀という激動の時代、ヤマトの威信を背負った男王と、能登の大地を護る女神が手を結び、新たな時代の扉を開いた「国作り」の痕跡そのものなのです。
【雨の宮能登王墓の館・雨の宮古墳群】
- 住所: 〒929-1602 石川県鹿島郡中能登町能登部上12部-1-1
- グーグルマップの位置情報
- 開館期間: 4月~11月(冬季休館あり)
- 入館料: 無料(※変更の可能性があるため事前にご確認ください)

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