歴史の教科書に載っているような有名な古墳も魅力的ですが、地方にひっそりと佇み、知る人ぞ知る物語を秘めた古墳にこそ、歴史のロマンがあるとは思いませんか?
兵庫県加西市にある「玉丘古墳」。一見すると、緑豊かな公園にたたずむ小高い丘のようですが、ここには1500年の時を超えて語り継がれる、切なくも美しい悲恋の物語と、古代日本の権力構造を解き明かす考古学的な大発見が眠っています。
『播磨国風土記』が伝える根日女(ねひめ)の悲恋
玉丘古墳を特別な存在にしているのは、古代の文献にその名が刻まれているからです。8世紀初頭に編纂された『播磨国風土記』には、この古墳の由来として、次のような物語が記されています 。
舞台は5世紀の播磨国。この地を治める首長の娘に、根日女(ねひめ)という類まれな美しさと巫女としての不思議な力を持つ女性がいました 。
ある日、彼女は二人の若者と運命的な出会いを果たします。彼らの正体は、政変から逃れ、身分を隠して暮らす意奚(おけ)と袁奚(をけ)の二人の皇子でした 。皇子たちは共に根日女に深く惹かれますが、互いにその想いを譲り合い、誰も言い出せないまま月日は流れていきました 。
やがて皇子たちは都に呼び戻され、兄は仁賢天皇、弟は顕宗天皇として即位します 。彼らはすぐに根日女を皇后として迎えようと使者を送りますが、時すでに遅く、長年待ち続けた彼女は心労からか、使者の到着を待たずにこの世を去ってしまったのです 。
深く悲しんだ天皇たちは、こう命じました。 「一日中、日の光が陰ることのない地に壮大な墓を造り、その亡骸を納め、美しい玉で飾りなさい」
この命令によって築かれ、玉で飾られた墓は「玉丘(たまおか)」と呼ばれ、地の名の由来となった…と。
この伝承により、玉丘古墳は「悲劇のヒロイン・根日女の墓」として、1300年以上もの間、人々の記憶に刻まれてきました。

考古学が語るもう一つの顔
考古学的な調査が進むと、この美しい物語とは少し違う、もう一つの顔が浮かび上がってきました。
謎①:埋葬されたのは誰?致命的な「年代のズレ」
まず、考古学者が直面したのは、致命的な年代の矛盾でした。
- 物語の時代:根日女が生きたとされる顕宗・仁賢天皇の時代は、5世紀の終わり頃(西暦485年~)。
- 古墳の築造年代:出土した埴輪や墳丘の形から、玉丘古墳が造られたのは5世紀前半(西暦400年~450年頃)。
両者の間には、半世紀以上もの時間のズレがあるのです。これは、根日女がこの古墳の被葬者であるという伝承を、そのまま史実として受け入れることができない決定的な証拠です。
では、この壮大な墓に眠る真の主は、一体誰だったのでしょうか?その答えは、墳丘の中心にありました。
謎②:王者の棺「長持形石棺」が意味するもの
玉丘古墳の後円部墳頂には、明治時代に行われた盗掘の跡が生々しく残っています 。多くの副葬品が失われたと考えられていますが、その盗掘坑の底から、被葬者の正体を示す何より雄弁な物証が発見されました。
それが「長持形石棺(ながもちがたせっかん)」です 。
この長持形石棺は、ただの石の棺ではありません。5世紀の古墳時代中期において、ヤマト王権の大王(天皇)や、それに連なる最高位の豪族だけが使用を許された、いわば「王者の棺」なのです 。

2015年から2017年にかけて行われた再調査では、この石棺が長さ3m、幅1.6mにも及ぶ巨大なもので、極めて精巧な加工技術で作られていることが判明しました 。その規模と格式は、畿内にある大王墓のものに匹敵するレベルだったのです 。
玉丘古墳の被葬者は、単なる地方の有力者などではありません。ヤマト王権の中枢と直接的につながり、国家レベルの政治連合において極めて重要な役割を担った、トップクラスの首長だと考えられます。
その最有力候補が、当時の北播磨を支配していた「針間鴨国造(はりまのかものくにのみやつこ)」の一族の長だと考えられています 。
なぜ「根日女の墓」になったのか?
では、なぜ5世紀前半の豪腕な首長の墓が、5世紀末の悲恋の姫君の墓として語り継がれることになったのでしょうか?
この謎を解く鍵は、物語が記録された『播磨国風土記』が編纂された8世紀初頭という時代にあります。
この時代、都では天皇を中心とする中央集権的な律令国家体制が確立されつつありました。中央政府にとって、地方の歴史や文化を国家の大きな物語の中に組み込んでいくことは、重要な政策の一つでした。
ここで、玉丘古墳という存在がクローズアップされます。8世紀の人々にとって、誰が造ったかもわからないこの巨大な古墳は、説明を必要とする「謎のモニュメント」でした。そこで、風土記の編纂者たちは、この地域の偉大な祖先の墓を、皇室と深く関わる有名な物語(意奚・袁奚皇子の流離譚)と結びつけたのではないでしょうか。
そうすることで、
- 地方(播磨)にとっては:我々の祖先は、古くから皇室と特別な関係にあったのだ、という権威づけになる。
- 中央(ヤマト)にとっては:地方の強力な権威を、皇室の物語の傘下に取り込むことができる。
という、双方にとって都合の良い「新しい歴史」が生まれたのです。つまり、根日女伝承は、史実そのものではなく、古代の巨大モニュメントを利用して、8世紀という時代の政治的・文化的要請に応えるために創られた「文化的記憶」だった、と考えることができます。
玉丘古墳は、物理的な石の記念碑であると同時に、物語というテキストによって刻まれた記念碑でもあるのです。この二重性こそ、玉丘古墳が持つ最大の魅力と言えるでしょう。

玉丘古墳を訪ねる
この壮大な物語と権力の舞台は、現在「玉丘史跡公園」として美しく整備され、誰でも自由に訪れることができます 。
園内には、主役である玉丘古墳のほか、家臣たちの墓とされるクワンス塚古墳や陪塚などが点在し、5世紀の「ネクロポリス(墓域)」の階層構造を体感できます 。芝生広場や遊具もあり、歴史散策だけでなく、ピクニックにも最適な場所です 。
所在地・アクセス
- 所在地: 兵庫県加西市玉丘町76
- Googleマップ: https://www.google.com/maps?q=兵庫県加西市玉丘町76
お車でお越しの場合
中国自動車道「加西IC」から約5分とアクセス抜群です 。無料駐車場も完備されています 。
公共交通機関でお越しの場合
- JR加古川線「粟生駅」で北条鉄道に乗り換え、終点「北条町駅」で下車。
- 「北条町駅」からコミュニティバスに乗り「健康福祉会館」で下車、徒歩約5分です 。
- または、神姫バス「玉丘史跡公園」バス停下車すぐのルートもあります 。
結び
玉丘古墳は、一つの古墳が考古学的な「史実」と、文学的な「物語」という二つの側面を併せ持つ、非常に稀有な例です。そこにあるのは、単なる過去の遺物ではありません。時代時代の人が、過去の偉大なモニュメントと対話し、新たな意味を与え続けてきた、文化のダイナミズムそのものです。
ぜひ一度、この地に足を運び、1500年前の権力者の野心と、1300年前に紡がれた姫君の悲恋に、思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
もっと深く知りたいあなたへ 参考文献ガイド
玉丘古墳の謎にさらに深く分け入りたい方のために、関連書籍をご紹介します。
物語の原典『播磨国風土記』
根日女伝承が記されている原典です。現代語訳付きの文庫本も出版されており、古代人の世界観に触れることができます。
- 『播磨国風土記 全訳注』 (講談社学術文庫)
- 比較的新しい全訳注で、詳細な解説が魅力です。
- 楽天市場
- 『播磨国風土記を読み解く―住まうための文学』 (武蔵野書院)
- 専門的な研究書で、より深い考察を求める方向けです。
- 武蔵野書院
考古学の最前線:発掘調査報告書
専門的な内容になりますが、最新の研究成果が詰まっています。一般販売はされていませんが、オンラインで閲覧可能なものもあります。
- 『玉丘古墳II 主体部盗掘坑及び長持形石棺の調査』 (加西市埋蔵文化財調査報告76)
- 2015-2017年の調査成果をまとめた報告書です。
- 閲覧先: 奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」のサイトでPDFが公開されています。

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