高知県高知市一宮。 ここに鎮座する土佐神社は、古くから「土佐一ノ宮」として、また地元では「しなね様」として厚い信仰を集めています。
長宗我部元親が再建した重要文化財の社殿も素晴らしいですが、この神社には歴史好きの心をざわつかせる、ある「衝撃的な縁起」が伝わっていることをご存知でしょうか。
それは、「この神社の神様は、天皇の怒りを買い土佐へ流罪(島流し)にされた」という伝承です。
今回は、古い歴史書や風土記の記述を紐解きながら、土佐神社の奥底に眠る「神の流刑」ミステリーに迫ります。
穏やかな「しなね様」の裏にある流刑伝説
現在、土佐神社の公式な御祭神は味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)と一言主神(ひとことぬしのかみ)の二柱とされています。
奈良県御所市の葛城山を本拠地とするこの神様が、なぜ遠く離れた南国・土佐の一ノ宮に祀られているのか。その理由について、鎌倉時代末期に記された『釈日本紀』は、失われた古文書『土佐国風土記』の一節を引用する形で、驚くべき記録を残しています。
『釈日本紀』所引「土佐国風土記」逸文
「天皇、葛城山に猟したまふとき、一言主神、天皇と相競ふ。天皇怒りて、土佐の國に流し棄てたまひき。」
(現代語訳:雄略天皇が葛城山で狩りをなさったとき、一言主神は天皇と対等に競い合った。これに天皇は激怒し、一言主神を土佐の国へ流し捨ててしまった。)
なんと、「神様が人に島流しにされる」という事件が、風土記に明確に記録されていたのです。
史料で変わる神の扱い

この事件の背景には、ヤマト王権と地方豪族との激しい政治的対立が見え隠れします。 実は、一言主神と雄略天皇の出会いは、書物によって描かれ方が全く異なります。
平和的な出会い(『古事記』)
日本最古の歴史書『古事記』では、一言主神は威厳ある姿で現れ、雄略天皇は「恐し(恐れ多いことです)」とひれ伏し、大御刀や衣服を献上しています。ここでは神が上位、あるいは対等の存在として描かれています。
対立の予兆(『日本書紀』)
一方、『日本書紀』では、両者が対等に狩りを楽しみますが、夕方になり一言主神が天皇を送っていく際、天皇は「神ごときが私の行列に加わるな」といった態度を見せず、あくまで共存関係として描かれます。しかし、微妙な緊張感も漂います。
決裂と流罪(『土佐国風土記』他)
そして、先ほど引用した『土佐国風土記』や『続日本紀』の時代になると、ついに「不敬な神」として流罪にされるという結末へと変化します。
歴史学者たちの間では、これは雄略天皇による中央集権化の過程を表していると言われています。かつてヤマト王権と対等な勢力を誇った葛城氏(葛城の神)が、徐々に王権に服従させられ、ついには「追放」という形で没落させられた歴史が、神話に投影されているのです。
土佐神社の社伝が語る「その後」
では、流された神様はどうなったのでしょうか。 土佐神社の由緒や地元の伝承には、流刑後の足取りが残されています。
伝承によれば、土佐に流された一言主神は、現在の社地に至るまで、以下のような変遷をたどったといいます。
- 賀茂の地への漂着 当初、神は土佐国賀茂郡(現在の高知県西部など諸説あり)に漂着したとされます。これは、一言主神を奉斎していたのが古代豪族・賀茂氏であったことと深く関係しています。
- 都への未練と「鳴無(おとなし)神社」 須崎市の鳴無神社(おとなしじんじゃ)も、一言主神の伝承地の一つです。「都に帰りたい」と泣いてばかりいたため、「鳴き無し(おとなし)」という社名になったとも、あるいは神の心が静まるのを待ったとも言われます。
- 安住の地・一宮へ 最終的に神が鎮まったのが、現在の土佐神社(一宮)です。ここで神は「味鋤高彦根神(賀茂氏の祖神)」と習合、あるいは同一視され、土佐を拓く産業の神として祀られることになりました。
土佐神社の別名「高賀茂大明神」という呼び名は、ここが「土佐における賀茂氏の聖地」であることを示しています。
礫石(つぶていし)に見る「神の怒り」と「鎮魂」
土佐神社の境内には、この「流罪」の記憶を今に伝えるかのような巨大な岩、「礫石(つぶていし)」が存在します。
社伝の一つには、「大神が鎮座地を定めるために投げた石」とあります。 流刑にされた神は、強力な怨霊になり得ます。当時の土佐の人々は、この強力な「葛城の神」の祟りを恐れ、丁重に祀り上げることで、その強大なエネルギーを「土佐を守る力」へと転換しようとしたのではないでしょうか。
現在、土佐神社が「一言で物事を解決する」や「和合協調」のご利益で知られるのは、かつて天皇と争い流された神が、長い時を経てこの地で安らぎを得て、人々の争いを鎮める存在へと昇華された証なのかもしれません。
長宗我部元親と「トンボ造り」
国指定重要文化財である本殿・幣殿・拝殿は、戦国時代の覇者・長宗我部元親によって元亀2年(1571年)に再建されたものです。

「入り蜻蛉」に込めた凱旋への執念
この社殿の最大の特徴は、上空から見ると十字型に見える「トンボ造り(志那祢様式)」です。 拝殿が本殿に向かって進むような形をしていることから「入り蜻蛉(いりとんぼ)」と呼ばれます。
- 若宮八幡宮(出蜻蛉):元親が初陣で祈願した社。戦場へ向かう「出陣」の形。
- 土佐神社(入り蜻蛉):土佐統一後に再建した社。勝利して戻る「凱旋」の形。
戦いに明け暮れた元親にとって、この土佐一ノ宮は、戦場から生きて帰り、安寧を得るための「帰るべき場所」だったのかもしれません。 古代の磐座信仰の上に、戦国武将の熱い祈りが重層的に積み重なっている点こそ、土佐神社の最大の魅力と言えるでしょう。
歴史の「勝者」と「敗者」が交錯する場所
土佐神社を訪れた際は、荘厳な社殿に手を合わせながら、ぜひこの「流罪伝承」を思い出してください。
『古事記』では語られない、『土佐国風土記』が知る神の流刑劇。 中央(ヤマト)で敗れた神が、辺境(土佐)で最高神として復活する――。 土佐一宮は、そんな古代日本のダイナミックな敗者復活の物語を、1500年の時を超えて今に伝えているのです。
アクセス・参拝情報

鎮座地 〒781-8131 高知県高知市一宮しなね2丁目16-1
アクセス手段
- お車の場合:
- 高知自動車道「高知IC」から約10分。
- 境内に無料駐車場が完備されています。
- 公共交通機関の場合:
- JR:土讃線「土佐一宮駅」下車、徒歩約15分〜20分。
- バス:とさでん交通「一宮東門」バス停より徒歩約4分、または「一宮神社前」バス停より徒歩約5分。




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