即位したのに都に入らない天皇?
507年に即位した第26代・継体天皇。しかし、彼が日本の中心地である「大和(奈良)」に入り、正式に都を定めたのは、即位からなんと約20年後の526年のことでした。
この異例の「大和不入」の期間について、これまでは「大和の旧来豪族たちの抵抗が強く、入れなかったのではないか?」あるいは「継体天皇自身が遠慮していたのではないか?」といった、やや受動的な理由で語られがちでした。
しかし、近年の考古学調査や地理的な分析から、全く別の真実が浮かび上がってきています。 実はこの20年間は、ただ待っていたのではなく、当時の日本が直面していた「国家存亡の危機」に備えるための、壮大な準備期間だったのです。
今回は、継体天皇の足跡と「淀川水系」の関係、そして真の墓とされる「今城塚古墳」の遺物から、その国家戦略の謎を解き明かします。
臆病風に吹かれたわけじゃない!「淀川」こそが最強の拠点
まず、「なぜ大和に入らなかったのか」ではなく、「なぜ淀川(大阪・京都)に留まったのか」という視点で地図を見てみましょう。

「奥座敷」の大和、「表玄関」の難波
考古学者の森田克行氏が指摘するように、当時の大和王権の構造は以下の二つで成り立っていました。
- 奥座敷(大和・奈良盆地): 政治・祭祀の中心。しかし海がない。
- 表玄関(難波・大阪湾): 外交・物流の拠点。
この二つを結ぶ大動脈こそが「淀川・木津川水系」です。 当時、大和川水系よりも、水量が豊富で京都方面や日本海側(越前など)へのアクセスも良い淀川水系こそが、国家の「正規の交通路」でした。継体天皇はこの生命線を掌握することを最優先したのです。
転々としたわけではない!「三つの宮」の戦略的配置
継体天皇は即位から大和入りまでの間、三つの宮を営んでいます。これらは「逃げ回っていた」のではなく、意図的に水運の要衝を選んで配置されていました。
① 樟葉宮(くすばのみや):507年~

- 場所: 大阪府枚方市
- 戦略的意味: 淀川・木津川・桂川の三川合流地点に近く、瀬戸内海から京都盆地へ抜ける水運の最大拠点。ここで即位することで、まず物流の根幹を押さえました。
② 筒城宮(つつきのみや):511年~
- 場所: 京都府京田辺市
- 戦略的意味: 木津川の中流域。ここは「大和への入り口」にあたります。大和北部の有力豪族(和珥氏など)と連携を深めつつ、南への圧力をかける位置取りです。
③ 弟国宮(おとくにのみや):518年~
- 場所: 京都府長岡京市
- 戦略的意味: 桂川の右岸。丹波方面へのアクセスも良く、難波(大阪湾)への水運もスムーズです。来るべき大遠征に向けた、最終的な「軍事司令部」としての機能を持っていたと考えられます。
つまり、継体天皇は自らのホームグラウンドである淀川水系に司令部を置き、着々と「国作り」と「兵站確保」を進めていたのです。
「待ち」ではなく「攻め」の20年!打倒・磐井へのカウントダウン
では、なぜそこまでして国力を蓄える必要があったのでしょうか? それは、西に巨大な敵がいたからです。九州北部の有力豪族、筑紫君磐井(つくしのきみ いわい)です。
当時、朝鮮半島情勢は緊迫しており、新羅と結んだ磐井が朝鮮半島へのルートを遮断することは、大和王権にとって外交・経済の死活問題でした。 継体天皇の「空白の20年」は、この「磐井の乱」を制圧するための軍事準備期間だったのです。

国家システムの再編
数万の兵を動かし、海を渡るには、従来の緩やかな連合体では不可能です。この期間に、彼は以下のシステムを強固にしました。
- 国造制(くにのみやつこせい): 地方豪族を国の役人として任命し、指揮命令系統を一本化。
- 屯倉制(みやけせい): 直轄地を全国に増やし、戦争に必要な食料や物資を確保。
20年間、彼は引きこもっていたのではなく、「対ボス戦」に向けて国家のレベル上げと装備強化を徹底的に行っていたのです。
考古学が明かす証拠!今城塚古墳の「船」が語る真実

「準備していた」という動かぬ証拠が、継体天皇の真の墓とされる今城塚古墳(大阪府高槻市)から出土しています。
ここからは、家や人の埴輪だけでなく、精巧な「船」の形象埴輪が見つかっています。 これは、継体天皇が強力な水軍を保有し、海を越えた軍事行動(磐井の乱や朝鮮半島政策)を政権の最重要課題としていたことの現れです。
継体天皇にとって「大和入り」とは、ゴールではなくスタートでした。
- 淀川水系で経済・軍事基盤を固める。
- 国家システム(国造・屯倉)を整備する。
- 満を持して大和へ入り(526年)、翌年に磐井の乱を鎮圧する(527年)。
この完璧なシナリオを描いたからこそ、彼は「大和不入」という選択をしたのでしょう。彼は決して臆病な王ではなく、極めて現実的で有能な「国家建設者」だったと言えるのです。
史跡アクセス情報
継体天皇の戦略の跡を、実際に歩いてみませんか?
今城塚古代歴史館 継体天皇の墓とされる「今城塚古墳」に隣接する博物館。日本最大級の埴輪祭祀場が実物大で再現されており、大王の権威と当時の船の埴輪などを間近で見ることができます。
- 住所: 大阪府高槻市郡家新町48-8
- グーグルマップの位置情報
- アクセス: JR京都線「摂津富田」駅または阪急京都線「富田」駅から高槻市営バス「南平台経由奈佐原」行き乗車、「今城塚古墳前」下車すぐ。
- 入館料: 無料(特別展は有料の場合あり)
岩戸山歴史文化交流館「いわいの郷」 筑紫君磐井(つくしのきみ いわい)の墓「岩戸山古墳」に隣接する博物館。石人石馬を間近で見ることができます。

- 住所: 福岡県八女市吉田1562-1
- グーグルマップの位置情報
- アクセス:
- JR鹿児島本線「羽犬塚駅」より堀川バス「福島」行き乗車、「福島高校前」下車徒歩約5分。
- 九州自動車道「八女IC」より車で約10分。
- 入館料: 無料
参考文献
本記事は、主に以下の研究成果や史料を参考に執筆しました。
- 森田克行 著
- 『継体天皇 二つの陵墓、四つの王宮』(新泉社、2008年)
- 『今城塚古墳の調査成果』(日本考古学協会『日本考古学』第16号、2009年)
- 『三島と古代淀川水運』(今城塚古代歴史館、2011年)




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