滋賀県・湖東エリア。鈴鹿山脈の西麓に広がる日野町小野(おの)地区。 のどかな田園風景の中に、ひとつの小さな神社が鎮座しています。その名は「鬼室神社(きしつじんじゃ)」。
一見すると、どこにでもある村の鎮守のようですが、ここはかつて、男女700人もの百済(くだら)の人々が移り住み、古代のハイテク技術を伝えた「渡来人の集住地」でした。
今回は、古代日本の国家形成に深く関わった渡来人・鬼室集斯(きしつしゅうし)の足跡と、現代によみがえる国際交流の物語を紹介します。
亡国の悲劇と渡来 鬼室集斯とは何者か?

鬼室神社の祭神である「鬼室集斯(きしつしゅうし)」。 彼は、7世紀の朝鮮半島にあった王国「百済(くだら)」の王族でした。
名前の由来は「鬼神をも和ませる」
「鬼室」という非常に珍しい名字。『新撰姓氏録』によれば、その由来は「鬼神感和(きしんかんわ)」——つまり「鬼神をも感動させて和ませる」という意味から名付けられたとされます。彼ら一族が、人知を超えたカリスマ性や、祭祀的な力を持っていたことを想像させる神秘的なエピソードです。
白村江の戦いと亡命
660年の百済滅亡後、復興運動の指揮を執ったのが鬼室福信(きしつふくしん)という人物でした(※集斯との正確な血縁関係は史料上不明ですが、同族であり、現代の日韓交流では「父」として敬われています)。 しかし663年、白村江の戦いで百済・倭国連合軍は敗北。集斯は祖国を失い、日本への亡命を余儀なくされました。
「700人の移住」と「学問・医療」のスペシャリスト
日本に渡った鬼室集斯を待っていたのは、意外な厚遇でした。 天智天皇率いる近江朝廷は、彼ら渡来人が持つ最先端の知識を、国づくりに不可欠なリソースとして受け入れたのです。
異例の出世と「父」の功績
『日本書紀』によれば、集斯は「小錦下(しょうきんげ)」(後の従五位下相当)という高い位を授けられました。その理由は「佐平福信の功績による」と記されています。祖国で散った福信の忠義が、日本にいる集斯の地位を守ったのです。 彼は「学職頭(がくしょくのかみ)」として、教育行政のトップを務めたとされ、司馬遼太郎は彼を「日本最初の大学総長」と評しました。
700人の大移動と医療技術
天智8年(669年)、集斯を含む「男女700余人」が、この近江国蒲生郡に移り住んだという記録があります。これは単なる引越しではなく、ひとつの「村」や「国」が丸ごと移動してくるような規模でした。 また、史料には集斯だけでなく、鬼室集信(きしつしゅうしん)という人物の名も残っています。彼は「薬を解れり」、つまり薬学や医学の知識を持っていたとされ、鬼室氏が教育だけでなく、医療技術も日本にもたらした「技術官僚(テクノクラート)集団」だったことがうかがえます。
境内の見どころ 江戸時代から続く守護の歴史

鬼室神社の境内は、静謐な空気に包まれています。
- 特殊な拝殿: 舞台のような開放的な造りをしており、かつては神楽などが奉納されていたことを物語っています。
- 本殿としての石祠: 最大の見どころは、木造の本殿ではなく、石造の祠の中に安置された八角形の石柱です。

石柱には「鬼室集斯之墓」と刻まれています。 この石碑については、江戸時代後期の記録に「朱鳥三年(存在しない年号)」とあることから、後世(中世〜江戸期)に再興されたものと考えられています。しかし、重要なのは「江戸時代の人々が、ここを異国の貴人の墓として敬い、守り続けてきた」という事実です。
地元の有力者「辻家」を中心とした組織が、明治の神仏分離以前は「不動堂」としてこの地を管理してきました。1300年もの間、血縁を超えて「記憶」が継承されてきたことに、日本の民俗信仰の深層を感じます。
現代の奇跡 1300年越しの父子再会

この神社の物語は、古代で終わりではありません。1990年代に入り、驚くべき展開を見せます。
姉妹都市協定の締結
韓国・扶餘郡恩山面には、非業の死を遂げた父・鬼室福信を祀る「恩山別神堂」があります。 「日本にいる息子(集斯)と、韓国にいる父(福信)の霊を会わせてあげたい」 そんなロマンチックな動機から、滋賀県日野町と韓国・恩山面との姉妹都市交流が始まりました。
祭祀と食の交流
現在、毎年行われる「鬼室神社秋の大祭」には韓国からの使節団も参列。神道の祝詞と韓国式の拝礼が交差する、珍しい光景が見られます。 また、祭りの後には「キムチ鍋」が振る舞われます。大阪・鶴橋から仕入れた本格キムチを使った鍋は、地域住民と訪問者の心を温める名物となっています。
アクセス・参拝情報
「学問の神様」としても知られる鬼室神社。静かな環境で歴史に思いを馳せるには最適の場所です。
- 住所: 滋賀県蒲生郡日野町小野
- アクセス: 近江鉄道「桜川駅」からバスで約25分、「小野」バス停下車すぐ。
- 駐車場: あり(参拝者用スペース)
【参考文献】古代の氏族と渡来人の世界をもっと深く知る
「渡来人」の理解を深める
- 『日本の古代豪族100』 (講談社現代新書)
- 鬼室集斯と同様に技術や知識を持って渡来し、強大な勢力となった「秦氏(はたうじ)」や「阿知使主(あちのおみ)」「東漢氏(やまとあやうじ)」などが掲載されています。「集斯のライバルや同僚にはどんな一族がいたのか?」という視点を提供できます。




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