【荒神谷遺跡】荒神谷遺跡の謎と出雲神話。山奥に眠る358本の銅剣

島根県
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「神々の国」と呼ばれる島根県出雲市。この地は、日本の神話体系の根幹をなす『古事記』や『日本書紀』において、極めて重要な舞台として描かれています。しかし、長らくの間、その記述はあくまで「神話」の世界のものとされ、歴史的な実体を持つ強大な国家がかつてこの地に存在したという考えは、確固たる証拠に欠けていました。

その定説が、根底から覆されたのが1984年の夏のことです。

のどかな田園風景が広がる丘陵地帯で、一本の農道工事をきっかけに、日本の考古学史を塗り替える「世紀の大発見」がなされました。それが荒神谷遺跡です。

考古学の常識を覆した「世紀の大発見」

1984年7月、広域農道建設に先立つ事前調査で、調査員が偶然にも古墳時代の須恵器片を発見したことから、荒神谷遺跡の発掘は始まりました 。当初は小規模な調査でしたが、掘り進められ姿を現したのは、弥生時代の銅剣でした 。   

最終的に、一つの谷間の斜面から出土した銅剣の総数は、358本 

れまでに日本全国で発見された弥生時代の銅剣の総数が約300本でありましたが、一か所の遺跡で、これまでの発見総数を軽々と上回ってしまったのです。   

しかし、驚きはこれで終わりませんでした。翌1985年、銅剣が出土した地点からわずか7メートルしか離れていない場所から、新たに銅鐸6個銅矛16本が、また整然と埋納された状態で見つかりました。   

この発見が考古学界に与えた衝撃は、単なる「量の多さ」に留まりません。それまで、銅鐸は近畿地方を中心とする「銅鐸文化圏」銅剣や銅矛といった武器形青銅器は北部九州を中心とする「武器形青銅器文化圏」の指標とされ、分布域を分けていました 。この二つの文化圏の祭器が、同じ場所から、明一つの祭祀的な文脈の中で発見された例は、ありませんでした。   

荒神谷の発見は、近畿中心、あるいは九州中心という二元的な古代史観に、出雲という第三の王国が存在した可能性を、示しました。神話の世界の出来事とされてきた「古代出雲王国」が、現実の歴史として立ち現れた瞬間でした。   

埋納された青銅器は「国譲り」の証しか

荒神谷から出土したおびただしい数の青銅器。これらは一体、何のために、誰が、この地に埋めたのでしょうか。その謎を解く鍵は、出雲を舞台とする壮大な神話、特に「国譲り」の物語にあるのかもしれません。

出雲神話と「剣」の象徴性

出雲神話において、「剣」は極めて重要な役割を果たします。英雄神スサノオノミコトは、八つの頭を持つ大蛇ヤマタノオロチを退治し、その尾から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、後の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を見出します 。この剣は三種の神器の一つとなりました。  

そして、出雲神話のクライマックスが「国譲り」です。大国主神が治めていた葦原中国を、天照大神が自分の子孫に譲るよう要求します。天照大神から遣わされた建御雷神(たけみかづちのかみ)は、十掬剣(とつかのつるぎ)を波の上に逆さに突き立て、その切っ先にあぐらをかいて大国主神に国譲りを迫ったと『古事記』は記しています。   

この神話は、出雲の土着の勢力が、天孫族、すなわち後のヤマト王権につながる勢力に服属したことを物語っていると解釈されています。

荒神谷の青銅器は「武装解除」の儀式か?

出土した358本の銅剣と16本の銅矛。これらはすべて、武器としての実用性がない「祭器」でした。特に銅矛は、木の柄を装着した痕跡が一切なく、鋳造されたままの状態で埋められていたのです。

この事実から、一つの仮説をたてれます。

荒神谷の大量の青銅器埋納は、国譲り神話に描かれた、出雲の勢力の武装解除を象徴する大規模な儀式だったのではないか?    

ヤマト王権への服属の証として、出雲が持てる武力(の象徴である祭器)のすべてを、神聖な谷に捧げ、封印した。そう考えることで、この異常なまでの量の青銅器が、神々への奉納物のように埋められていた状況が、理解できるのではないでしょうか。358本の銅剣は、刃を立てた状態で4列に並べられ 、銅矛は刃先と基部を交互に違えるという、意図的な配置がなされていました 。これは壮大な儀礼の末に行われたことを物語っています。   

加茂岩倉遺跡との謎めいた関係

荒神谷の衝撃から12年後の1996年、荒神谷から山一つ隔てた、直線距離でわずか3.3kmの地点で、またしても農道工事中に、加茂岩倉遺跡が発見されたのです 。ここからは、一か所からの出土例としては史上最多となる39個もの銅鐸が、一つの穴にぎっしりと詰め込まれた状態で見つかりました 。   

この二つの遺跡は、単に地理的に近いだけではありませんでした。

  • 共通の「×」印: 荒神谷の銅剣344本に刻まれていた謎の「×」印が、加茂岩倉の銅鐸の一部にも確認されたのです。これは、両遺跡の青銅器群が同一の集団によって管理されていたことを示す決定的証拠と考えられています。   
  • 同時期の埋納: 埋納時期は、両遺跡ともに弥生時代中期後半から後期初頭(紀元100年頃)と推定されています。      

古代出雲の権力を物語る周辺の史跡群

荒神谷と加茂岩倉の謎をさらに深く理解するためには、周辺に点在する史跡や神社を訪れることが重要です。古代出雲の広がりと、ヤマト王権との複雑な関係を解き明かす鍵があるでしょう。

神原神社古墳(かんばらじんじゃこふん) 卑弥呼の鏡が語るもの

加茂岩倉遺跡のすぐ近くに、必見の古墳があります。それが神原神社古墳です 。この古墳は、一見すると小さな方墳ですが、 

副葬品の中から、「景初三年」(西暦239年)という年号が刻まれた三角縁神獣鏡が発見されたのです 。『三国志』魏志倭人伝によれば、この年は邪馬台国の女王・卑弥呼が魏に使いを送り、皇帝から銅鏡百枚を賜ったとされる年とほぼ一致します 。   

この鏡は、卑弥呼がヤマト王権を通じて各地の豪族に配布した「卑弥呼の鏡」の一枚である可能性が極めて高いと考えられています 。なぜ、そんな貴重な鏡が、ヤマトから遠く離れた出雲の地で、これほど早い時期の古墳から見つかったのか。それは、当時の出雲の首長が、ヤマト王権と対等に近い、極めて重要な同盟関係にあったことを示唆しています。荒神谷の青銅器が象徴する「国譲り」が、一方的な征服ではなく、両者の政治的な駆け引きの末の統合であった可能性を、この一枚の鏡は静かに物語っているのです。   

  • 神原神社古墳
出雲大社 国を譲った神の鎮座地

国譲り神話の中心地。主祭神は、国を譲った大国主大神です。国譲りの見返りとして、大国主神のために「天高くそびえる立派な宮殿」が建てられたとされ、それが現在の出雲大社の起源と伝えられています。   

荒神谷遺跡の発見は、この神話に考古学的な裏付けを与えました。かつてこの地を治めた強大な王権の存在が明らかになったことで、出雲大社の創建物語は、単なる神話から、より歴史的なリアリティを帯びてきます。荒神谷で古代出雲の力強さを感じた後に訪れると、大国主神への想いも一層深まることでしょう。   

須佐神社 英雄神スサノオノミコトの終焉の地

ヤマタノオロチを退治した英雄神、スサノオノミコトを祀る古社 。スサノオは、この地を自らの終焉の地と定め、魂を鎮めたと伝えられています。境内には、樹齢1300年ともいわれる大杉がそびえ立ち、荘厳な雰囲気に包まれています。荒神谷の青銅器文化の源流ともいえる、出雲の力強い神々の息吹を感じられるパワースポットです。   

荒神谷遺跡へのアクセスガイド

荒神谷史跡公園と荒神谷博物館

遺跡一帯は荒神谷史跡公園として整備されており、古代の景観を体感できる広大な公園となっています 。公園内には荒神谷博物館があり、発掘された青銅器の精巧なレプリカや、発見時の埋納状況を再現した実物大のジオラマを見ることができます 。ここで予習をしてから実際の遺跡に向かうと、感動もひとしおです。   

  • 荒神谷遺跡
アクセス方法

【車でのアクセス】    

  • 山陰自動車道「斐川IC」から広域農道(出雲ロマン街道)を経由して約5分。
  • 無料駐車場が完備されています(合計200台以上)。   

【公共交通機関でのアクセス】    

  • 最寄り駅: JR山陰本線「荘原駅」
  • 荘原駅から車(タクシー)で約5分、徒歩で約40~50分。
  • JR出雲市駅からは車(タクシー)で約20分。
  • 出雲縁結び空港からは車(タクシー)で約10分。
  • 注意: 荘原駅にはタクシーが常駐していない場合があるため、事前にタクシー会社に連絡しておくことをお勧めします 。遺跡までの路線バスはありません 。   

参考文献

この記事を執筆するにあたり、多くの専門的な知見を参考にしました。さらに深く学びたい方のために、いくつかの書籍をご紹介します。

  • 『荒神谷遺跡 (日本の遺跡)』 足立克己 著
    • 発見の経緯から出土品の解説、保存の様子までを網羅した一冊。
    • Amazonで購入    
  • 『古墳とヤマト政権―古代国家はいかに形成されたか (文春新書)』 白石太一郎 著
    • 荒神谷遺跡や神原神社古墳を含む、古墳時代の政治状況やヤマト王権との関係を理解するための良書。
    • Amazonで購入    
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